2008-01-01から1年間の記事一覧

北京スナップ

街はなんだかいつもより静かなのです。北京一の繁華街「王府井」に行っても、普段のウィークデイくらいの人出で、“外国人”の姿も、普段と変わりませんでした。看板のデカさだけがやたらと目につきました。王府井で見た女の子。清朝の飾り物です。中国の少女…

北京駅界隈で

昨夜10時半に無事北京に到着し、北京駅前のYHに落ち着きました。前もってあれこれ予約を入れておいたおかげで、今回はけっきょく、予想したよりスムーズな旅でした。そもそも他人のウワサとはあてにならないもので、地下鉄は全線走っていましたし、これまで…

“忽然として”

きのう朝6時に賀家湾を出て、今は太原です。今回はいつもにも増して何事が起こるか予測できない状況なので、早めに行動しました。太原→北京も、普段は頻発しているバスを利用しますが、不確定要素の少ない列車にし、切符も旅行社を通して予約しました。さき…

私が日本人であるということは。

どうやら先週、開化へ行った頃が“不運のどん底”だったのかも知れません。膝の方は自分でも意外なほどの回復力で、3日目には平地ならなんとか歩けるようになりました。最も、その後もほとんど毎日外出しているので、3日後からの状況は今も変わらず、やっぱり…

一百天

今日はこの家の賀ジン喜がなくなってから100日目の法要(「一百天」といいます)があり、朝から親戚の人たちが5,6人やって来ています。法要といっても、日本のように僧侶が来るとか、読経があるとかいうのはありません。みんなで簡単な昼ご飯を食べて、それ…

不運の連鎖はまだまだ続く。

不運の連鎖はまだまだ途切れることなく続いているのです。こうなるといったいどこまで行くのか?行き着く先には何かが見えるのか?とことんつきあうしか仕方ないでしょう。予定していた取材がダメになった開化へ行ってきました。世話になった張先生や賀老人…

この1週間はつらい日々でした。

この1週間はほんとうにつらい1週間でした(一部継続中)。まず、暑いのです、とにかく。連日の40度を超える猛暑に、さしもの洞窟建築も部屋中が温まってしまい、前に書いたほど快適ではなくなりました。カーテンを閉め切っておいても熱気がじわじわと進入し…

薛興達老人(81歳)の話

我々の村で起こった事件は、1943年の秋だったと思うが、天気は徐々に寒さに向かっていく頃で、畑仕事も基本的には終わっていた。最初日本人は直接この村にやってきたのではなく、先に焉口という村などに行ってからここにやってきた。村人たちがちょうど朝飯…

“新しい農村”

坪頭を最初に訪れたのは、一昨年の12月でした。“日本軍による虐殺事件が起こった村“へは、どうしても足が運び難いのですが、このときも取材は予定せずに“こっそり”下見に出かけました。いえ、そのつもりでした。ところが乗ったバスの車掌が、以前磧口にいた…

この1週間もいろんなことがありました。

先週26日から3泊4日で、「坪頭(ピントウ)」という村に行って来ました。去年撮った写真をまだ渡してない人がいたからです。坪頭は臨県ではなく、隣の離石区に属しますが、距離的には50kmくらい、やはりいったん離石まで出て乗り換え、都合7時間ほどかかりま…

rakurai

rakurai no tame gennzai jibunn no PC ga tsukaenai jyoutai desu. shibaraku omachi kudasai.

黄土高原の“写楽”

今回開化にやって来たのは“下見”のつもりでした。イーハーは仕事があるので来られないし、紹介してもらった同級生の郭先生も初対面です。それに中興社でのこともあったので、初めての村で、同行者もなく、いきなり取材というのはひかえようと思っていました…

“親日教育”

5年生を担当している郭先生が、授業で何かしゃべってくれない?というので、3日目の昼過ぎに30人ほどの子供たちを前に30分ほど話をしました。私の中国語などお粗末きわまりないので、黒板に字や地図を書いて、身振り手振りの授業です。なぜか他の先生たちも…

黄土高原のおたまじゃくし

開化の話に戻ります。開化へは、まず磧口から臨県(臨県の行政所在地も臨県)まで行って、そこから開化行きのバスに乗り換えるのですが、臨県を出てすぐに、まわりの山の様子が違うことに気がつきました。緑が多いのです。途中で「退耕還林」(耕作を中止し…

切捨てゴメン!

13日の夕方“恵みの雨”が降ったことは書きましたが、私は翌14日夜、賀家湾に戻りました。磧口からいったん離石まで出て、そこから午後3時半に出るバスに乗るのですが、途中こんなことがありました。というか、日本ではあり得ない“習慣”について書いてみます。…

飛んで火に入る夏の虫

今日、6月13日午後5時前、おしめり程度とはいえ、“恵みの雨”が降りました。私は開化からとりあえず磧口に戻ったのですが(ここは無線ネットカードが繋がります)、賀家湾のあたりも間違いなく降っていると思います。村人たちのホッとした笑顔が眼に見えるよ…

黄土高原の“小北京”

イーハーの学生時代の友達が「開化」という村の小学校の先生をしているというのでさっそく行ってきました。というのも、そのあたりはかつて八路軍の拠点だった「革命根拠地」のひとつだった、という話を聞いたからです。磧口や賀家湾は、臨県の最南部にある…

端午節

きのう久しぶりに磧口に戻ってきました。そして今日6月8日は旧暦の5月5日、「端午節」で、国が定めた祝日です。日本では端午の節句というと、男の子の祭りといった感が強いのですが、こちらでは無病息災を祈る行事です。磧口の人に聞いてみると、特に伝統的…

貼り紙

村長さんと村の書記がやって来て、木の幹に何やら貼り紙をしているのでのぞいてみると、非法な爆発物等の発見通報者に奨励金を出すという内容のものでした。こういった貼り紙は前にも見たことがありますが、いよいよオリンピックも近づき、改めて摘発に乗り…

黄土高原の隠れ里には

6月1日が中国では「儿童節」といってこどもの日です。それで小学校が3日間の休みに入り、楊イーハーが実家の「中興社」村に帰るというので、一緒に連れて行ってもらいました。ちょうど彼の弟も来ていて、バイクに3人乗り、無免許、ノーヘルで山道を走るので…

忠犬なつめ

も〜〜ぅ、まいりました。なつめのことです。なつめはなかなか人になつかない犬なのですが、今度の大家さんは犬が好きみたいで、けっこうなついています。それで大家さんもかわいいから、ついつい食べ物をあげてしまうのです。決まった時間以外にやらないで…

共同体の祭り

yasutomiさんからご質問のあった“送り火”のことですが、こちらでは、「擺路灯」(バイルーダン)といいます。「擺」という字は、並べるという意味です。(ちなみに、yasutomiさんは、黄河をはさんだちょうど反対側の陝西省楊家溝という村を中心に、黄土高原…

aaaaaa,mattaku

kyou wa dennki mo ari, Net mo tunagaru noni, watashi no PC ga setsuzoku dekizu nihonngo ga hyouji dekimasenn. mata ashita try shimasu. zaijian!

みかんのビン詰

(ネット情報によると)今回の地震に対する、日本政府、企業による義援金の拠出、そして国際救援隊の活動に対して、中国人の日本に対するイメージが好転しているといった報道がなされているようです。こちらのマスコミも積極的に報道しているようで、村人か…

ミクロンとの闘い

この辺りの村の名前はとてもわかりやすくて、「樊家山」というのは、樊という人が開いた山の上にある村、「高家溝」というのは、高という人が開いた谷筋の村、「林家坪」というのは、林という人が開いた平らになった土地、ということです。「湾」とつく名前…

賀家湾(ハージャーワン)

今日、磧口から賀家湾という村に引っ越してきました。1〜2ヶ月の予定です。実はなつめの件とは関係なく、引越すことは前から決まっていました。この村は以前1年くらい暮らした樊家山の隣村で、すでに知り合いも多いところです。1ヶ月ほど前に「しばらくここ…

地震情報

*5月10日に引っ越して、ようやく今日インターネットが繋がりました。地震は大丈夫だったか?というメールも数件いただいていますので、時間的に前後しますが、先にこれをアップしました。*昨日は下の招賢の町で5日に一度の市が開かれるので、米など基本的…

白宝有老人(83歳)の話

最初に日本人が村に来たときは私はまだ小さかった。日本人は村人を刀で刺し殺してから紐で繋いで黄河に放り込んだ。最初の一回が一番残酷だった。あのときは全部で十数人が殺された。それからは、まだ日本人がやってくる前に村人はぜんぶ逃げた。私が21歳に…

空飛ぶなつめ

なつめは一過性の下痢だったようで、もうすっかり元気になって空を飛んでいます。(動きが速いんでぜんぜんピントが合ってませんが)今日は山ではなく、河の方に連れて行きました。黄河の河原は生活ゴミが小山のように堆積しているので、それをあさって犬も…

白じいちゃんが死んだ

磧口に戻った翌日、預けてあったなつめを受け取りに行くと、李三娥が「去年最後に取材した白宝有(バイ・バオヨウ)が死んだよ」というのです。白じいちゃんはすでにおととしの夏に取材をしているのですが、そのときはまだビデオがなかったので、去年の暮れ…