みかんのビン詰

(ネット情報によると)今回の地震に対する、日本政府、企業による義援金の拠出、そして国際救援隊の活動に対して、中国人の日本に対するイメージが好転しているといった報道がなされているようです。こちらのマスコミも積極的に報道しているようで、村人からも「日本がお金をたくさん出してくれたね。救援隊のニュースも見たよ」という声が何度もかかりました。とりわけ救援隊に関してはとても評価が高く、テレビを見ていて目頭が熱くなったという人もいました。例え映像を通じてではあれ、国家や大組織ではなく、個人の顔が見える距離での“支援”の想いが、中国の老百姓(庶民)に届いたのだと思います。

ただし、震災5日後くらいに村長さんの家でテレビを見たのですが、あ、と小さく息を呑んだシーンがありました。ニュースの最後に各国からの支援データをその国の領事館の映像とともに放映していたのですが、日本以外の国々は、その国の国旗がはっきりと認識できる角度で映されているのに、日本の国旗だけはポールにやや垂れ下がった状態で映されていたのです。「日の丸」が翩翻と翻る映像が中国国民に受け入れられるには、まだまだ時間がかかるということでしょう。

ところで一昨日、こんなことがありました。磧口の近くに馮家会(ファンジャーホイ)という村があって、そこの小学校の校長先生を知っているので、磧口に行くついでに寄ってみました。賀家湾小学校の楊イーハーのバイクに乗せてもらって1時間の距離です。まず校長のお母さんを紹介してもらって話を聞き、彼女の紹介で元八路軍の馮廷発老人に取材しました。そして彼に日本軍に焼かれた痕が残っているヤオトンに案内してもらい、その戻り道で2人の老人に出会ったので、話を聞きたいとイーハーに伝えてもらいました。すると男性の方は、「話すことなど何もない。話したくない」。女性の方は「私は今でも日本人を恨んでいる」ときつく言い放ったのです。

あぁそうかぁと、私は帰ろうとしました。ほんとうに時々ですが、こういう事態もあります。ところが、馮老人が「この人はたったひとりでこんな活動をしているのだから‥‥」と語りかけると、その男性の表情がじきに緩んできて、問わず語りに話し出し、私はあわててビデオを廻しました。語っている内容自体は、標準語への翻訳を待たないとわからないのですが、あちらの山塊、こちらの河辺を指差しつつ、彼の脳裏には未だにくっきりと当時のイメージが残像しているようでした。

そのうちに彼は自分の家に寄らないかといい出し、私たちは5人で彼のヤオトンに向いました。まず私を部屋に招じ入れると、カンの上に座ってくれとうながし(カンの上というのが親しい人に勧める席)、奥の部屋に消えると、しばらくして小さなみかんのビン詰を持ってきて私たちに勧めてくれたのです。もうこの頃はニコニコ顔で、老人たちの間で話が弾みました。彼らはみな戦後初めて日本人を見たのであって、特におばあちゃんは、当時はすぐに隠れたので実際には日本人を見たことがなく、私が生まれて初めて見る日本人だったのです。

ビン詰めのみかんは、彼らにとって決して安いものではないので迷いましたが、フタを開けて勧めてくれたので、遠慮なくいただきました。それは幼かった頃、病気のときにだけ食べさせてもらった日本のみかんの缶詰とまったく同じ味がして、甘く切なくなつかしく、まるで遠い昔にすでになくなった、私の故郷の庭が一瞬見えたような気がしました。その後には“日本人を恨んで”いたおばあちゃんがまた別のおばあちゃんの家に案内してくれ、最後には手を握り合って再会を約して別れたのです。

そして、こういうことは珍しいことでもなんでもなく、頻繁に出会う状況であり、老人たちはみな純朴で心優しく、(私の経験した限りでは)ほんの1,2時間で“日本人への恨み”は緩やかに氷解し、「遠いところからほんとうによく来てくれた」と精一杯のもてなしで労ってくれるのです。そして、こういう人たちに出会えるからこそ、この黄土高原の片隅の“三光作戦”の村で、私は3年間彼らと生活を共にし、聞き取りを続けていられるのです。

(5月25日)
写真:上が馮廷発老人83歳。下が馮善厚老人79歳。