不運の連鎖はまだまだ続く。

不運の連鎖はまだまだ途切れることなく続いているのです。こうなるといったいどこまで行くのか?行き着く先には何かが見えるのか?とことんつきあうしか仕方ないでしょう。

予定していた取材がダメになった開化へ行ってきました。世話になった張先生や賀老人に写真を渡さなければならなかったからです。もう疲れ果てていたのですが、何かいいことがあるかもしれないと、心の底に淡い期待を抱いて。

今回も張先生の家にお世話になり、午後8時頃に夕食の煮込みうどんを食べました。ここでもテーブルに座って食べる習慣はないので、みんなでどんぶりを持って門の外にある大きな石の上に座って、おしゃべりをしながら食べました。そして私は、おかわりをするためにかまどのある部屋に行こうとしたのですが、途中、日本ではあり得ない位置に15センチほどの段差があったのです。しかも電灯などなく真っ暗。あっという間もなく躓いてコンクリートの上で右ひざと左ひじと顎を打ち、起き上がろうとしたのですが、立てませんでした。しまった!と思いました。こんなところで骨折でもしたら、予定している飛行機に乗れない。予定を遅らせれば、オリンピックが始まって、もう絶対に身動きができない。そもそも“戒厳令下”の北京までたどり着けるのかどうかも、今から心配しているくらいなのに。とにかく痛さなどぜんぜん感じず、頭の中をいろんなケースがめぐりめぐって冷や汗が出ました。

張夫妻に両方からかかえられて部屋のベッドに横になったのですが、どうやら骨折はしてないようです。膝に力がかからなければ痛みはありませんでした。しかし歩けません。医者を呼ぼうか?という張先生の言葉をさえぎって、洗面器に水をもらってタオルで冷やし、リウマチ用の貼り薬(当地ではリウマチは非常に多い病気。民間特効薬はサソリで、壁に這っているのを箸でつかまえて、焼酎に漬けて保存する)があったのでそれを2枚貼り付けました。そしてしばらくして、立っては歩けないけれど、お皿を両手で押さえて腰を落とし、蜘蛛のような形になってぞろぞろ移動することはできることがわかり、トイレにも自力で行くことができました。

まぁ明日にならなければ、これ以上悪くなるか良くなるかわからないし、顔を洗って寝ることにしました。そして例の公団住宅風の洗面所からぞろぞろ戻ってどすん、とベッドに腰を下ろしたのですが、このどすんの下にメガネがあったのですね。あわれやあわれ、顔にかけて使うことはできない状態になりました。

しかし素晴らしいことに、私の膝は翌朝にはぎりぎり歩行が可能なところまで回復をみていたのです。もう1日泊まりなさいという声をまたしてもさえぎって、私は早朝6時の臨県行きのバスに乗りました。幸いなことに“乗り換え”はありませんでした。そして普段ならそこから2時半に出る招賢行きのバスに乗るのですが、これだと招賢から30分ほど山道を登らなければなりません。しかし、いったん離石まで出て、そこから3時半に出るバスに乗ると、賀家湾を通ります。時間的には倍以上かかりますが仕方ありません。

離石で余裕があったので、私は久しぶりに肯徳基(ケンタッキー)に入りました。ここはエアコンがあって、水が流れるトイレがあって、コーヒーが飲めて、誰にも話しかけられることなくゆっくりできる“高原のオアシス”です。コーヒーとタコス巻きを注文し、痛む膝をかかえてやれやれと腰を下ろしたところでバツンッ!と電気が切れました。離石での停電は初めて経験します。10分もたたないうちに店の中は蒸し風呂状態になり、私は追われるようにまた足を引きずり外に出ました。

米を切らしているので、近くの超市(スーパー)に行き、やっとの思いで階段を下りて、自家発電の豆電球で営業している地下売り場へ行きました。量り売りの雑穀は10種類以上あって、暗くてどれが米だかわかりません。従業員に頼んで2キロほど詰めてもらいました。

とにかく、何としても賀家湾を通るバスにのらないといけないので、1時半には停留所に向かいました。3時半といっても、場合によっては2時3時に出てしまうこともあるのです。さすがに乗客は2,3人で、私は一番いい席を確保し、すぐ前の屋台できゅうりとトマトとピーマンを買いました。賀家湾に着いたら、だれか近くの人に声をかければ、気軽に私の部屋まで運んでくれるからです。

けっきょく1時間半待った後、バスは出発しました。ところが10分走ったところで停車し、何やら別のバスの運転手と話をしていたと思ったら、賀家湾に行く人はそのバスに乗り換えてくれというのです。つまりこういうことです。前にも書いたように、こちらのバスは個人営業ですから、自分たちの効率がよくなる方法を、彼ら運転手仲間で常々研究しています。例えば、東京と大阪からそれぞれバスが出たとすると、名古屋でドッキングし、乗客をまるまる入れ替えるということをやるのです。その後に、相手が運んできた乗客を乗せてそれぞれの出発地に戻れば、とりあえず走行距離は半分になるわけです(これは、町→町の路線の場合。村→町の場合は、乗っている乗客の顔を見てから路線を変更する)。もちろん「まことに申し訳ありませんが」などという歯の浮くようなあいさつはいっさいありません。乗り換えるといっても、だいたいが大量の荷物を持っているわけだし、席が常にあるわけではありません。私は1時間半前に来て一番前に座っていたのに、米と野菜を持ち、足を引きずってそのバスに乗り換えたときには、とうに席はありませんでした。こういうこともたびたびあって、私は1日に2回、これをやられたことがあります。すべて、携帯電話が普及したおかげです。乗客で文句をいう人はまずいません。みな我先にと新しい席を確保するだけで、文句をいっているひまに席はなくなります。そして、最初に乗ったバスは出発し、乗り換えたバスが出発するまでまた30分以上待たされたのです。

今日の移動距離は100キロちょっとあるでしょうか?それでも、朝5時半に起きて12時間かかっています。暑さと砂埃とイライラの上に、睡眠不足と痛む膝を抱えて、もう極限まで疲れ果てました。自分でもよくここまで当地の習慣に“慣れる”ことができたものだと、その環境適応能力に唖然とするくらいです。バスを降りて、村長の家に写真を届け、バイクで送ってくれといったのですが、みんなで酒盛りをしていて誰も立ち上がりません。もうめんどうくさくなって、自力で我が家に戻りました。

なつめが飛びついて来ましたが、この2日間あまりものを食べず、部屋からも出てこないと大家さんがいうのです。これは予測している状況ですが、いよいよ私がいなくなったらどうなるのか、とても心配です。

さて、ここしばらく米を食べていないし、玉子焼きときゅうり酢でも作って食べようと袋を開くと、なんとそれは「長粒米」だったのです。私は従業員に「東北大米」をくれといったのに、彼女はその意味がわかっていなかったのです。きっと米を食べる習慣がほとんどない子だったのでしょう。当地の主食はあくまで「麺(小麦)」と「粟」で、米はまずいからといって食べない人も多いのです。もちろんこの地では米はとれません。

今日も長い長い一日でした。そしてどうしようもない長い長い駄文ですが、この中に新聞社やテレビ局の“特派員報告”では紹介されない、現代中国のある一面を読み取っていただければ幸いです。

(7月16日)
写真:中国(少なくとも北部地方)にはマックよりケンタの方が圧倒的に多いです。料金は国際価格?で、コーヒーが1杯80円くらい。農民はもちろんは入れません。
黄砂がどれくらい細かい粒子かというと、このとおり。バスに乗るにもマスクはかかせません。