郝峪塔の白じいちゃん

臨県から北上すること30キロほど、郝峪塔(ハオイーター)まで行ってきました。臨県から北へは、ほぼまっすぐな道が続いていて、バスの速度も違います。遠くには山並みが望まれますが、ほぼ平坦地で、内モンゴル方面に向かう石炭車が行きかう主要幹線道路です。賀家湾から100キロも離れていないのですが、風景ががらりと違うので、遠くまで来たなぁという思いに駆られます。

郝峪塔という村は、臨県北部に位置する白文鎮に属し、白文鎮の北側の興県というのは、当時八路軍の根拠地となっていたところです。興県の東側に嵐県という県があって、この嵐県の行政所在地である嵐県にも日本軍は長く駐屯していました。私も一度行ったことがありますが、中央から見放されること凄まじいまでの寂れた貧しい地域で、去年、習近平も“極貧地区視察”に訪れたようです。

戦闘の合間の蛮行も甚だしく、例えば誰かが「自分は嵐県出身だ」というと、「お前は日本人の血が混じっているだろう」と、すかさず軽口をたたかれるような所のようです。私もかつて“潜入”を試みたことがあったのですが、中を取り持ってくれる人も見つからず、やむなく断念したことがありました。


ところで、郝峪塔にはどういうコネで行ったのか思い出せないのですが、白じいちゃんのことはよく覚えています。じいちゃんは孤児として育ち、読み書きはいっさいできず、物心ついたときから、ただただ畑を耕すことしか知らなかったそうです。しかしじいちゃんはほんとうに明るくて、私の突然の訪問を心から喜んでくれ、頼んでもいないのに農具や作物を抱えていろんなポーズをとってくれ、いかにも黄土高原の農夫といった感じのいい写真もたくさん撮らせてもらいました。今夜はここに泊まってゆけと、なかなか帰してくれず、押し問答にすらなって別れたのです。

あれから6年ぶりの訪問で、果たして生きているのかどうか不安でしたが、じいちゃんは昔とほとんど変わらずに元気でした。私が撮った葬儀用の写真をタンスの中に大切に保管していて、こんなにいい写真を撮ってもらったから、いつでも安心して死ねるといっていましたが、当地の老人たちにとって、60も過ぎれば、葬儀用の写真を用意しておくということは至上命令なのです。しかしこの伝統のおかげで、私も取材が楽になったというのは事実です。私が写真を撮って、それを必ず、どんなに遠くても、届けに来るということが噂になって、聞き取りに応じてくれた老人たちはたくさんいたのです。

今回も、ご飯を作るから食べてから帰れと何度もいわれましたが、そういう時間も取れず、逃げるようにしてじいちゃんの家を後にしました。もう2度と会うことはないと思うと、門口に立って手を振るじいちゃんの姿もじわっとぼやけて、振り返り振り返り見納めて村を後にしました。思えばこの10年間、300人以上の老人たちから話を聞き、そしてわかっているだけでも、そのうちの200人ほどがすでに亡くなっています。この10年間の人との出会いは、いつでも一期一会で、張りつめた細い糸が、前触れもなくプツン!と切れることを日々想定した関わりの中で過ごしてきました。過酷な自然環境への順応よりもむしろ、私のヤワな心の方がもう限界に近づいているのかも知れません。


じいちゃんの家の裏側に高架の鉄道が通っていましたが、どこからどこへ行くの?と聞いても、さぁ?という答えが返って来るばかりでした。


羊たちはこれから売られてゆくところでしょうか?動物や家畜たちとの距離も近いので、日本では見ることのない様々な情景に出会ってきましたが、“たかが犬一匹”という感性と、それを産み出したこの環境には、結局いつまで経っても慣れることができません。