薛興達老人(81歳)の話

我々の村で起こった事件は、1943年の秋だったと思うが、天気は徐々に寒さに向かっていく頃で、畑仕事も基本的には終わっていた。最初日本人は直接この村にやってきたのではなく、先に焉口という村などに行ってからここにやってきた。

村人たちがちょうど朝飯を食べたか食べ終わらなかったかというときに、日本軍はやってきた。彼らはここに3日3晩滞在した。彼らが当時93人の中国人を殺したのを、私は自分の目で見ているが、ただ、この村の人は3,4人で、みな比較的年齢の高い人たちだった。直接殺された人の他に、そのときは大混乱だったので、逃げるときに転んで踏みつけられて死んだ人もいた。それから、当時80歳くらいの老人が日本人が食用油を浪費するのをとがめたところ、彼らに担がれて崖の下に投げられた。後にようやく探し出したところ、老人はすでに死んでいた。墜死したのか餓死したのか凍死したのか、それとも恐ろしさのあまりに死んだのかはわからなかった。

その他に殺された人は、みな別のところで捉まって連れてこられた人たちだった。特に、趙家山から連れてこられたふたりの子供は、ほんの10歳前後で、まだ頭髪に子供の刈り方を残していた。まだ学校にいっている年齢だったけれど、殺されて山の上に捨てられた。彼らはいろんなところで捉まって連れてこられた人たちで、決して一ヶ所ではなかった。

普通、日本軍は昼間は来ないで、夜になるのを待って寝入りばなにやってきて村人を連れ去った。捉まった人たちはみな殺された。けれども殺されなかった人もいた。例えば、ある場所で捉まったけれど、ちょうど歩哨が居眠りをしていたときに、こっそりと逃げた人もいた。その頃彼は40代だった。それから、もうひとり捉まった人がいたが、幸いにも彼はその地の地形をよく知っていたので、日本人が彼を崖っぷちに蹲らせたときに、一瞬の間に飛び降り、ちょうど下にあった洞窟に逃げ込んだ。日本人が崖を下りて捜しにきたが、それは絶好の隠れ場所で、誰にも捜しだすことはできなかった。日本人がいなくなるのを見てから、彼もそこから出て逃げた。それからもうひとりの人は、ものすごく遠いところまで逃げたけれど、それでも捉まって、また連れてこられて殺された。

彼らが殺したのはみんな男だった。それから覚えているのは、彼らが外から帰ってくるときには、たくさんの牛、羊を連れてきて、殺して食べたということだ。民兵が帰ってくる頃にもまだたくさん残っていた。こういったことはものすごく多くて、私も全部を覚えているわけではない。

当時私は17歳だった。私は家に住む気にはならなかったので、民兵と一緒に外地を廻った。当時歩哨がすべての村を包囲して見張っていて、私の家の向かいの山の上にもあちこちに歩哨がいた。日本人が村に来るときは、いつも夜だった。時には彼らが連行していくのが男だったか女だったかわからなかった。

あの頃我々の被害は甚大だった。日本人が来るといつもメチャクチャにあらされた。村で養蜂をしている家があったが、蜂蜜が食べたかったのか、村から奪ってきた道具で、どうやったのかわからないほどグチャグチャに全部壊された。日本軍は当時我々の粟、大豆などの食糧を全部一緒に混ぜて、我々が簡単には食べられないようにした。彼らは炊事のときも石炭を燃やさずに、門や窓枠、タンス、長持ちのふたなど、木製のものを何から何まで燃やした。彼らは鶏も殺した。水や食糧を入れる甕も壊し、食糧を地上にばら撒いて、大小便をかけて、村人が食べられないようにした。ほんとうに残酷なやり方だった。

それから“金皮隊”も日本人と同じように酷くて、同じように物を盗んだ。あの頃社会は貧しく、人も貧しく、村人はほんとうにかわいそうだった。それに加えて、日本軍が来てから、鶏を殺し、牛や羊を殺し、村人はほんとうに怖がって、一生懸命これらの家畜を守ろうとしたが、けっきょくはいつも奪われ殺された。

当時、日本人が来たとき、我々が作った食糧はみんな食べられないようにメチャクチャにされた。炭鉱で働いて小金をためていたある人は、物を買って食べた。またある人は地下に隠しておいて、日本人がみつけられなかった分は、食べることができた。およそ日本人が目にしたものはすべてメチャクチャにされた。春節がきても、村にはほんとうに食べるものがなく、畑に残った野菜、木の根など、みつけたものはなんでも腹に入れて飢えを充たした。それでなければ何も食べるものがなかったし、水もなかった。その上に日本軍はいつも我々の水も台無しにした。毒が投げ入れられているのを恐れて、我々は水を飲まなかった。また彼らは、水がめの中に大小便をした。生活することがほんとうに困難だったけれど、どうすることもできなかった。

(2007年3月9日採録
*これは昨年3月にブログ上にアップしたものです。