黄土高原の“写楽”

今回開化にやって来たのは“下見”のつもりでした。イーハーは仕事があるので来られないし、紹介してもらった同級生の郭先生も初対面です。それに中興社でのこともあったので、初めての村で、同行者もなく、いきなり取材というのはひかえようと思っていました。それでビデオカメラ等も持参しませんでした。ところが私の思惑に反して、郭先生も張先生も、授業の合間をぬってあちこちに連絡を取って協力者を探してくれたのです。それでまずは、「どこそこに誰それがいる」という情報に詳しい人ということで、79歳になる賀老人を紹介してもらいました。

2日目の夕方、賀老人の方から私が泊まっていた張先生の家にパジャマ姿でやって来て、終始笑みを絶やさぬ布袋さんのような顔で、いろいろな情報を提供してくれました。しかし考えてみればこれはとても不思議なことです。磧口や招賢界隈では、もう3年もいるので、私のことは間接的にであれ知っている人も多いのですが、風の噂も届かないこんなに遠く離れた村で、しかも全員が初対面なのに、いきなりやって来た日本人に露ほどの疑念も持たないとは。これはこの地がもともと“革命根拠地”だったことと関係があるのでしょうか?私はいよいよもってこの開化村に関心はふくらむばかりでした。

そして張先生は、翌日、隣村の90歳になる老人のところに連れて行ってくれました。この李老人はずっと国民党だったということですが、それはいったいどういうことなのか?それも次回です。彼は取材をするなら村の幹部の許可をとってくれといったそうですが(この間のいきさつを私はまったく知らない)、その幹部というのは同時に隣村の小学校の先生で、私よりも李老人の話の方に興が乗ったようで、ありがたいことに私には関心を示しませんでした。李老人はものすごく頑固そうで、「おばあちゃんと一緒に写真を撮りましょうか?」というと、「お前はあっちに行ってろ!」と近くにいた連れ合いを冷たく突き放していました。で、この時の写真が“写楽”です。あと“おあいそ”に、近くにいた孫の写真もたくさん撮りました。これで、次回行くときの取材は必ずやOK!でしょう。いまや私のデジカメは、強力な“武器”となっているのです。

(6月17日)
写真:張先生の後ろに口をあけているのが、地下道の入り口。日本軍が来たときにはみなここに隠れたそうですが、太った人は入れません。数百メートルあるそうです。