一百天

今日はこの家の賀ジン喜がなくなってから100日目の法要(「一百天」といいます)があり、朝から親戚の人たちが5,6人やって来ています。法要といっても、日本のように僧侶が来るとか、読経があるとかいうのはありません。みんなで簡単な昼ご飯を食べて、それから墓参りに行って終わりです。墓参りに行くときに庭で爆竹が鳴らされましたが、ほんの10秒ほどで、それだけでもうこの家が“ビンボー”だということがわかります。

不思議に思うのは、この墓参りに「妻」の高奶英は行かないのです。「妻」が死んでも「夫」は行きませんし、そもそも、葬儀のときはいっかんして配偶者は人前にほとんど姿を現さないのです。「孝衣」という白い喪服も着ず、まったくの普段着です。前にも書きましたが、葬儀は年寄りのためにだけ執り行われ、それはひとつの“世代交代”の儀式でもあるわけで、需要なのは配偶者ではなく、次の世代ということなのでしょう。ちなみに喪主というのは、子供か孫で、子供がなければ、甥など、すべて男が務めます。しかも日本のようにはっきり決まっているわけではなく、男の兄弟がいれば全員が喪主といった感じです。

むしろ葬儀の進行の役割分担ははっきり決まっていて、料理人、かたずけ人、水汲人、墓堀人から香典の受取人まで、一覧表にしてよく見えるところに貼り出します。これらの分担をいったいどういう基準で決めるのか、そういったことも調べてみたら興味深いと思います。考えてみれば、私が今住んでいるこのあたりは、昔からの伝統、風俗習慣が色濃く残存している地域です。この方面の聞き取り調査もしないと“もったいない”ような気がしています。

それで思い出したことがありますが、この界隈の老人で、離石の病院で最期を迎える人も当然います。経済的余裕がかなりある人たちです。ところが離石はすでに土葬が禁止されているので、病院で死ぬと土葬ができません。ところが本人は(そして近親者も)まず間違いなく土葬を希望するようで、そのためには、まだ息がある間に急いで車に乗せて故郷の村に帰るのだそうです。当然“死期を早める”わけですが、そんなことより何より、“故郷の山に埋葬されたい”という想いはずっと強いようです。

聞き取りをしていても、例えば異郷で戦死した兵士の遺体を、野越え山越え、何日もかけて家族に送り届けた(今は法律で禁止)という話を聞きます。日本ならば、荼毘に付して骨だけを持ち帰るでしょう。以前磧口で、父親を日本人に殺されてどこに埋められているかわからないという老人が、自分が生きているうちに探し出して埋葬してやらないと、墓が完成しない、日本政府は協力してくれないだろうか?といってきたことがありました。つまり、こちらの墓は夫婦一対でひとつの墓なので、墓の中で母親が今も待っているというのです。すでに60数年間、彼の中でも戦争は決して終わってはいないのです。

*夫と妻の死んだ時期が近接している場合は、墓を2つ並べて造ることもあります。その間がかなり離れている場合は、先に死んだ人の骨をいったん掘り出して、「合葬」という儀式を執り行って、新しい墓に一緒に収めることになります。墓の場所は陰陽師が決めるので、親子でも近くに造るとは限りません。他人の畑に造る場合は、畑を一部交換したり、お金を払ったりするようです。

(7月17日)
写真:なんだかまたまた“暗い話題”になってしまってすみません。写真は招賢の町であった葬儀の「祭(ジィ)」という供え物。身内が持ち寄り、埋葬のときに燃やします。大きな葬儀はこれもたくさんあって、絢爛豪華です。下は役割分担表。葬儀に使われる色も、とにかく「紅」です。