この1週間もいろんなことがありました。

先週26日から3泊4日で、「坪頭(ピントウ)」という村に行って来ました。去年撮った写真をまだ渡してない人がいたからです。坪頭は臨県ではなく、隣の離石区に属しますが、距離的には50kmくらい、やはりいったん離石まで出て乗り換え、都合7時間ほどかかります。ここは、1943年に日本軍による大虐殺事件がおきているところで、他の村で取材した老人たちからも頻繁に名前が出て来ます。私は今回で5回目の訪問です。

村に着いて、すでに顔見知りの雑貨屋の老板(経営者)を訪ねるとニコニコ顔で迎えてくれ、自分たちは店の奥で寝るからと、改装したばかりの立派な部屋を私のために空けてくれました。3部屋続きのヤオトンで、床にもフローリングがしてあって砂埃もたたず、水もポンプでくみ上げることができます。ところが、こんな部屋なら仕事もはかどるなぁと喜んだのもつかの間、電気配線に問題があったんですねぇ。翌日の雷でビデオの充電器とパソコンの電源コードがやられてしまったのです。

黄土高原の雷もそうとうにすさまじいものがありますが、雷が鳴り出すと変電所の方で危機を察知してすぐに電気を止めてしまうので、これまで被害にあったことはありませんでした。今回のはほんの小さなもので、遠くの方でゴロゴロいっていただけで、村の電気もずっと止まらなかったのですが、何の因果か、私の機器だけが狙い撃ちされてしまったのです。

仕方なく、予定を早めて賀家湾に戻り、四川人がいっせいに帰郷してガランとした招賢の電器屋で修理可能かどうか聞いてみました。そしてその答えが出るまでにまるまる1日かかり、結局、充電器のケースを開けるビスをはずす工具がないので、なおらないというのです。よく見てみると、たしかにSONYの特製なんでしょう、ちょっと違った頭の形をしていました。

電源コードの方は、どういうわけか自然に回復していて、ただし、2,30分使うと変圧器が熱くなって切れてしまう、という状況であることがわかりました。それで今は、だましだまし使っているのですが、これが突然壊れて、220Vが一気にPCに流れ込んで本体がぶち壊れてしまうということは、構造上あり得ないはずだという確信の元に、恐る恐る使っています。

そうこうしていると、イーハーから連絡が入り、例の開化の取材には、取材許可をとれと村の幹部がいっているというのです。あの日、私に無関心そうだったくだんの共産党員は、実はこっそり私を監視していたんですねぇ、私の考えが甘かったようです。しかし、今中国では取材許可は必要なくなったはずですが、こんな僻地までそういった情報が入ってくることはないでしょう。そもそも外国人など私ひとりだけなんですから。

それで、開化での今回の取材は取りやめることにしました。臨県のお役所まで(おそらくは何度も)足を運んで、その上に、当日は幹部の監視付きの取材など私はしたくないからです。新たに自分の足で開拓すればいいことで、幸か不幸か、いえ、まったく不幸なことに、どんな辺鄙な村に行こうと、日本軍の暴虐の足跡は隅から隅まで、くまなく印されているのです。

ところが、そういった“不穏な空気”が流れ出したとたん、イーハーや郭先生の態度が急に変わって、これまで案内を予定してくれていた自分たちの村に「行けない」といい出したのです。これも詳しく事情を聞くことを止めました。私のこれまでの経験からいって、若い人たちのほうがむしろ“固定観念”に捉われている傾向が強く、「そもそも戦争の被害を受けた老人たちは、今でも日本人を恨んでいるので、日本人の取材など受けたくないはずだ」と考えている人が多いのです。その上に行政から“横槍”が入ったのですから。

そこで昨日のことです。招賢の金物屋に針金を買いに行きました。実はなつめが発情期を迎えたのですが、周りはオス犬がゾロゾロ放し飼いにされているので、この1週間、一度も外に出してはいません。それでますます欲求不満になって、うなるわ噛み付くわ暴れるわで、これまでのビニール紐では危ないので針金が必要になったのです。

店に入っていくと、老人がひとり座っていました。もう私は反射的に「じいちゃんいくつ?」「日本人が来た頃のこと覚えてる?」と話しかけたのですが、彼は、自分は八路軍だったけれど、後方部隊だったので日本人と直接戦闘を交えたことはない、といって、そこで会話が終わってしまいました。言葉もほとんど通じないし、あまり乗り気ではなかったのです。すると、意外なことに初めて入ったその店の老板が、私のことを知っていたようで、助け舟を出してくれ、とにかく翌日老人の家に行くことにOKが出ました。

そして今日、すでに引き気味のイーハーを伴って老人を訪ね、主に八路軍について30分くらい話を聞いてきました。聞き終わってからいつものように、写真を引き伸ばして届けるのでどれがいいかとモニターを見せ、心ばかりの謝礼として、セブンスターと10元の中国たばこ(当地では高級品)を差し出すと、老人は「こんなにしてもらって、自分はいったい何を返せばいいんだろう?」とびっくりするようなことをいったのです。私はあわてて「とんでもない、話を聞かせてもらっただけで充分です」といい、来年出版を予定しているけれど、あなたの話を発表していいかと聞くと、「何を今さら、そのために話したんだろう」という返事が返ってきました。そして別れ際に「ほんとうにありがとう。とても感謝しているよ」といって、戻りかけた私の足を再び引き留めたのです。私は老人の手を両手で握り締めて、本ができたら必ず届けるので、それまで元気で待っていて下さいといい、今年88歳になるという渠樹茂老人は、坂の上からいつまでも私たちを見送ってくれました。

追記:日ごろは四川人の炭鉱労働者で賑わう招賢の町は急に静かになり、ネット屋も閑古鳥が鳴いていました。1週間ほど前から、山西省の炭鉱と煙が出る工場はすべて操業停止になったからです(一説によると全中国で)。「なぜ?」「だって、ほら、奥運会には外国からたくさんお客さんが来るだろう?きれいな空にしないとね」。末端の労働者に休業補償などもちろんありません。これで数日前には北京の天空にミサイル弾をブチ込んで一雨降らせ、8月8日の開会式は、まさに抜けるような紺碧の空の下、真紅の五星紅旗が翩翻と翻ることでしょう。あぁまったく楽しみなこと。

(7月2日)