“新しい農村”

坪頭を最初に訪れたのは、一昨年の12月でした。“日本軍による虐殺事件が起こった村“へは、どうしても足が運び難いのですが、このときも取材は予定せずに“こっそり”下見に出かけました。いえ、そのつもりでした。ところが乗ったバスの車掌が、以前磧口にいた人だったので、すぐに身元がバレてしまい、その時ちょうど近くに座っていた人が雑貨屋の老板だったのです。彼は以前3年間広州に出稼ぎに行った経験があり、ほぼ標準語が話せます。以来、私が行くたびに彼は忙しい時間を割いて同行してくれたのです。村で取材するのに、その村の人が一緒に行ってくれればこれ以上のことはありません。今回も前もって彼に連絡を入れてから行きました。

ところが、半年以上たっての再訪でしたが、村の様子はびっくりするほど変化していたのです。農民たちが刺し殺されて次々投げ落とされたという深い谷はすっかり埋め立てられ、その上に真新しい“住宅群”が今まさに建設中でした。虐殺現場に建てられていた記念碑も撤去され、少し離れた民家の塀に、すでに遠い過去と忘れられたようにぽつんと立てかけられていました。この村へは離石から2時間ほどかかり、一雨降ればやはり交通が難儀するところです。

「こんなところにいったい誰が住むの?」
「村の中で不便なところに住んでいる人が引っ越してくるのさ」
「だってここは、水がないところでしょう?」
「天水を集めて共同井戸を掘るんだ」
「仕事は?」
「炭鉱。新しい農村をみんなで建設するんだよ」

60数年前の陰惨な殺戮現場を、そのまま保存することに特別の意味はないかも知れません。現在の生活に利便性を求めるのはけだし当然のことでしょう。しかし、事件を知る老人たちは次々と亡くなってゆき、記憶を辿るための現場も、時の移ろいと共にこうして次第に姿を消してゆきます。あの切り立った深くえぐれた谷、すべての遺体を引き上げるのに1週間かかったという悲しみの断崖を、映像に残しているのは、おそらくは先回私が廻したビデオだけでしょう。

“新しい農村”が村人たちに期待通りの新生活を運んでくるとすれば、おそらくは老人たちの記憶も密やかに封印され、やがては彼ら中国人にとっても、“なかったこと”、になってしまうのでしょうか?「国辱を忘れるな」と書かれた記念碑がはたして再建されるのかどうか?村人の数人は、「あぁあんなもの、もう壊して谷に埋めちゃえばいいんだよ」とまでいっていたのです。

「1943年旧暦9月29日から10月1日にかけて、日本軍は抗日根拠地の軍民に復讐するために三交、柳林、大武などの駐屯地から1000余の兵力を結集し、近隣24ヵ村を包囲して焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす三光政策を実行し、各村から連行した107名の民衆をこの地で惨殺した。この国辱を我々は忘れることなく次の世代への警示としなければならない。」

(7月3日)
写真:埋立地の片隅に、かつての村の中心だった「廟」が、まるでひとつだけ残った寂しいショートケーキのようでした。やがて取り壊されるそうです。