黄土高原の隠れ里には

6月1日が中国では「儿童節」といってこどもの日です。それで小学校が3日間の休みに入り、楊イーハーが実家の「中興社」村に帰るというので、一緒に連れて行ってもらいました。ちょうど彼の弟も来ていて、バイクに3人乗り、無免許、ノーヘルで山道を走るので、実はとても恐ろしいことなのですが、もうこちらの“風習”にすっかり慣れてしまった私は、カメラ、ビデオ、三脚等々に、取材先であげるお菓子などをしこたま積み込んで最後尾に乗り込みました。いちおう中華人民共和国の法律では、この3つともが禁止されているのですが、“農村”では極フツーのことで、4人乗りも珍しくありません。ちなみに無免許の場合、罰金2000元と拘留15日、らしいです。

2時間ほど爆走しましたが、これがまた、いったいこんなところに人が住んでいるんだろうか?と思うくらいの山の中で、しかしさすがに中国、どこまで行っても、やっぱり人が住み、村があるのです。考えてみれば、樊家山にしても、1日に1本、離石へ行くバスが通っているわけで、賀家湾も30分も歩けばバスが出ています。まして磧口は“町”です。これまでの私は広大な黄土高原のほんの一端、しかも比較的都市に近い部分に触れたにすぎません。

そのことを改めて思い知らされる出来事に出会いました。村の中をイーハーとブラブラしていたら、ちょうどある家の葬儀が終わったところで、そこに村長さんがいました。そして「この村に日本人に勝手に入ってきて欲しくない。取材も許さない」と、一杯入っていたこともあったのでしょうが、かなり乱暴にいわれたのです。村に日本人が来たのは1回だけで、直接的にはそれほど大きな被害には遭ってなかったようですが、それでも彼の“日本人嫌い”は徹底していたようです。私は中国政府の発行したビザを持って入国していることや、この間の活動について説明したかったのですが、そして(これまでの経験からいって)“信頼”を取り戻す自信もあったのですが、イーハーの両親に迷惑がかかってもと思い、黙って引き下がりました。

四川地震救援隊の“いい”ニュースがあると同時に、60数年前の記憶と風評と、今も毎日どこかのチャンネルでやっている“抗日ドラマ”以外に日本の情報などまったく入ってこない僻村で、こういう事態が発生することは充分に予測できることです。私はこの村での取材をあきらめることにしました。

そして隣村である「石仏山」という村に向いましたが、実はこの村に“日本語を話す”老人が住んでいると以前聞いたことがあるのです。日本語を話すということは、日本軍に協力した“漢奸”だろうか?しかしそれならばそんなことは秘密にしているでしょう。いったいどういう人なのか‥‥?

隣村とはいえ、いったん谷まで降りて、再び山道を登らなければならないのでバイクと徒歩で1時間かかり、その隠れ里のような村に到着したのは、すでに夕方の6時でした。その人が見つかるかどうか心配だったのですが、80数歳と聞いていたので、村に入って最初の家で尋ねてみるとすぐにわかりました。つまり80歳を超える男性は、人口1000人を超すこの村にひとりしかいなかったのです。

“日本語を話す”というのは大げさで、単語をいくつか知っているだけでしたが、私が気を使って「本にするときは本名ではなく、仮名でもいいですから」というと、「何をこの歳になって今さら。もう死ぬのを待っているだけだから」と、むしろ私が来るのを待っていたかのように話し出しました。これがもうびっくりするほど意外な内容だったのです。

これまた、標準語への翻訳を待たねばなりませんが、カタコトの日本語を覚えているのは、当時彼の家の隣に日本軍が作った「日本語学校」があって、そこから毎日聞こえて来るので自然に覚えたそうです。そして彼は日本軍の中にいた2人の共産党員とマージャンをしたことがあり、その共産党員は、八路軍に武器や弾薬を提供してくれたというのです。マージャンで彼は何万元だか大勝ちしたそうで、最後に私が「日本人は払ってくれましたか?」と聞くと、「あぁ払ってくれた。日本人は誠実だから人を騙さない」と、老人は真剣な表情で私の思惑を否定したのです。60を超える村々を廻っていると、実にいろいろな人に出会えるものです。

(6月2日)
写真:中興社あたりの風景。段々畑の襞が粗くなっているのは、本来の山の形に近く、人の手が入っていないということです。人口が多くなるほど、襞は密になってきます。
下はイーハーのおばあちゃん。彼女の部屋で2晩泊めてもらいました。まったく通じないのに、次から次へと話しかけてきて、夜中にも寝言で何度か起こされました。