私が日本人であるということは。

どうやら先週、開化へ行った頃が“不運のどん底”だったのかも知れません。

膝の方は自分でも意外なほどの回復力で、3日目には平地ならなんとか歩けるようになりました。最も、その後もほとんど毎日外出しているので、3日後からの状況は今も変わらず、やっぱりズルズル足をひきずって移動しています。

暑さの峠も過ぎたようで、40℃を越える日はなくなりました。雨も適度に降って、農民たちも喜んでいます。もっと早くに気がつけばよかったのに、金鳥蚊取り線香があるのを発見して、虫もぐっと減りました。ステロイドの効き目はやはり抜群で、腕の痒みも止まりました。電気もあれ以降はほぼ順調に来ています。仕事を止めてしまった息子がぶらぶらしているので、水汲みも頼めます。なつめのことはもう、なるようにしかなりません。

近所の二龍という青年は招賢でコックをしているのですが、四川人が一斉帰郷したので店が臨時休業してしまい、(個人的には)おかげで私の足として、電話をかけるとすぐにかけつけてくれるようになりました。筋骨隆々の彼は、かつて人民解放軍に3年いたのですが、考えてみれば、元解放軍兵士のバイクに乗った日本人の私が、元八路軍兵士の取材に出かけるとは、まったく妙なめぐり合わせだと思います。

その元八路軍兵士の李継祥老人に、先日ようやく写真を届けに行ってきました。取材はすでに昨年暮れにしています。今年87歳になる彼は、最初閻錫山の部隊に3年いて、戦闘で共産党軍の俘虜になり、八路軍林彪部隊に3年、その後また国民党の俘虜となって6年、合計12年兵役に就いた人です。所属部隊の名称から、上官の名前、戦闘地名、遊撃戦の闘い方、武器の使い方、兵士たちの生活はどんなだったか、食事は何を食べたか、そして八路軍の規律、国民党軍の規律もすべて諳んじていて、その驚異的な記憶力にまったく舌を巻かされました。

日本軍に捉まって1ヶ月監禁され、日本人と2人で組になって、歩哨に立たされたこともあったそうですが、それは閻錫山の部隊にいたときで、もし八路軍のときだったら、とっくに彼の命はなかったことでしょう。また、八路軍にいたときの彼の部隊の長は、女性だったそうです。しかし、12年間ほとんど毎日戦闘に明け暮れ、「突撃だけが我々の任務だった」という百戦錬磨のこの猛者にしてすら、「日本人はほんとうに恐ろしかった」そうです。

私はできればもう一度機会を作って、彼を訪問したいと考えています。こういう人たちの記憶をもし誰も聞き取っておかないとしたら、まるで重要文化財がある日突然灰燼に帰してしまったかのように、彼らの記憶もまたいつか突然消滅してしまうからです。

実をいうと、3年間この地で日中戦争の記憶を聞き取る作業をしてきて、私の想いは最初の頃とはやや違ってきています。最初の頃は、“日本人のひとり”として、彼らの記憶を聞き取り、“三光作戦”とは何だったのかを考えることは、やはり「戦後責任」に関わる問題だったといっていいと思います。しかし、ひとりあたり平均年収1000元といわれる“ビンボー”な村々で、洗面器一杯の水を使いまわしながら村人たちと生活を共にし、多くの心優しい無欲な老人たちと出会う中で、私が日本人であるということは、以前ほど重要なことではなくなってきたのです。

私が出会った老人たちのほとんどは字が書けません。今誰かが記録に残さない限り、名もなき農民たちの無数の記憶は、いずれ“なかったこと”として、歴史の闇に葬られることでしょう。そして彼らではない“誰か”が“新しい歴史”を記そうとしているのです。これは日本だけの問題ではなく、驚異的な経済発展を続けるこの国でも、立ち位置が違うとはいえ、すでに同じ方向を向いているのではないかという気がしています。「戦争被害者たちは、日本人の取材を受けたくないはずだ」と考えているのなら、なぜ彼ら中国人がそれをしないのでしょう?

ここ最近、私は老人たちに来年の出版に向けて、彼らの証言を日本で発表してもいいかどうかという確認をとっています。まだ全体の1/3くらいですが、彼らはほとんどみな、「自分たちの記憶を記録に残して欲しい」といいます。そしてそういうときの老人たちの表情を見ていると、彼らにとってもまた、私が日本人であるということは、それほど重要なことではないような気がしています。

(7月22日)
写真:たまには趣を変えて、坪頭の仲良し3人組。下は李継祥老人。