中国の夢

これが見納めと、天安門広場に行ってきました。10年以上も前、北京に住んでいたころは、やはり何かとおじゃましましたが、ほんとうに久しぶりです。

泊まっているホテルの近くから、「前門」行きのバスが出ていることを知り、それに乗りました。前門は天安門広場の南端にある門で、そこから一直線に天安門を越え故宮の正門に繋がってゆくところです。前門をくぐって、ずっと歩いて行ってみるつもりでした。


ところが、バスを下りたあたりから、以前はなかった鉄製の柵がずーーーーっと連なっていて、すぐ目の前にある前門に行くことができないのです。立っていた兵士(ポリスではなく、人民解放軍の制服を着ていた)に、どうやって行くんだ?と聞くと、あっちへ行けと指さされ、


やむなく柵に沿って歩いてゆくと、やっぱり!検問所がありました。ここで身分証の提示と、空港にあるX線通す機械のベルトに荷物を乗せて検査されます。身分証というのは日本のマイナンバーと同じで、中国では16歳(だったか?)以上のすべての国民が持っていて、ホテルに泊まるにも、例えラブホのご休憩でも、これを提示しなければなりません。外見は日本の運転免許証とほぼ同じです。私は旅券を見せろと言われたのですが、すっとぼけて、英語でムニャムニャ言ったら、通してくれました。


以前はひっきりなしに車が通っていた道路も、ほとんど通行量がなく、やけに広々と無機的な空間をさらしていました。


天安門広場は、なんといっても中華人民共和国のおへそのような所ですから、全人代などがある時は別にして、いつ行っても全国からやってくるお上りさんで賑わっていました。以前は凧揚げをする人も多かったし、屋台も出ていたし、単にぶらぶら散歩したり、近隣の人々の公園の役割も果たしていたのです。それが今回はいくら閑散期とはいえ、がら〜んとまさしく閑古鳥が鳴いていました。


こんな人たちはたくさんいました。


いつ頃からこんな規制が始まったかは知りませんが、2008年のオリンピックの前の北京を知っている私から見れば、その変貌ぶりはハードからソフトまで、隅から隅まで、がんじがらめにされていっているのですが、どうも中国の一般庶民たちはそのことをあまり気にしていないようです。これが私にはとても不思議なのですが、古代より連綿として、そういう激烈な社会を生き抜いてきた中華民族の、それこそが底力なんでしょうか?


近くでビルの新築(改修?)工事中でしたが、そのデカいことといったら、“近寄りがたい”オーラを放っていました。私が北京で暮らしていた頃、表側だけ見ていると、さすがに華やかで立派な、一国の首都の顔を持っていても、それでも裏に廻ると“薄汚れた”“遅れた”北京がまだまだ残っていました。ところが昨今、裏に廻ろうが奥に突き抜けようが、どこからどこまでもピカピカに開発が進み、人々は裕福そうで、若者はみなスマホのイヤホンを耳にさし、子どもたちはボードに乗って街を闊歩し、1杯500円くらいのコーヒーショップがどこも繁盛していて、そして“乞食”の姿を見なくなったのです。

「中国夢」というのは、習近平政権になってからの常套スローガンですが、夢の実現をいったいどのあたりに想定しているのか、考えただけでちょっとそら恐ろしくなるような、すさまじいまでの中国の現実です。

胡同巡り

またぞろ先週ホーチミンから戻ったのですが、寒すぎてウチに戻れず、北京に滞留しています。東京では、40数年ぶりに−4℃を記録したとかでニュースになっているようですが、最高が−4℃なら御の字という地に頑張って戻っても、暖房は小さな電気ストーブひとつ、根性で耐えていても脳の血管がブチ切れるのではないかという不安があって、なかなか帰れないでいるのです。半年前、アンコールワットでせっかく拾った命ですから、大切にしないとね。

偶然泊まったホテルですが(いつもの七天および錦江ホテルはアプリで予約することができ、近年はもっぱらその線でホテルをとっていますが、外国人の私にとって、飛び込みで適当に、というのは、今やとても難しくなっています)、このホテルのすぐ向かい側から、胡同(フートン)がダーッと拡がっていて、予期していなかったことだからもう毎日嬉々として胡同巡りをしています。




とにかく樹木が多くて、夏場はどんなに快適かとしのばれます。北京はそんなに樹木が茂る気候ではないと思うのですが、多分住民たちが心をこめて育てて来た結果ではないかと思うのですが。。。


電気メーターもこんな感じになります。


わかりづらいですが、これは床屋さん。覗き込んだらちょうどチョキチョキやってるところでした。


お菓子やタバコなど売ってる店。


法華寺と書いてありましたが、中には寺らしき痕跡は何もなくて、フツーに人が暮らしていました。


胡同でありがたいのは、あちこちにトイレがあること。胡同の家屋にはトイレがないのでみな外の共同トイレを使います。以前は、だだっ広い床に、ボコボコッと穴が開いているだけでしたが、ここはみな新しいトイレで、腰くらいの仕切りもありました。毎日ここにしゃがんでは、「今夜のおかず何にする?」「子どもの成績が……」「ウチの亭主がね。。。」というような会話が交わされるんでしょうね。胡同の“醍醐味”ともいえるシチュエーションではないかと思います。


トイレ掃除のおばさんの車。



犬を見ると否応なく顔が綻んでしまう私です。





路地が狭いので、こんなミニカーが活躍していました。みな電動車です。


すでにお気づきのことと思いますが、北京の空は青いのです。なんでも、今年は石炭を焚くのを禁止したとか。じゃあ、私が今泊まっているホテルの暖房は、石油なんだろうか?いずれにしろ、何から何まで、“国家規模”でモノゴトが動いてゆくのが中国です。

私もいつまでものんびり胡同巡りなんかしてないで、そろそろ村に戻らなければなりません。今年の春節は2月16日で、すでに1か月を切っているので、列車の切符もどんどん取りづらくなるのです。しかし、帰っても寒い。途中で太原か、近郊の町か、きっとどこかで寄り道をすると思います。

食べ止まり知らず

当たり前ですが、ネコにもそれぞれ個性がありますね。私はネコを飼った経験がないので、日々なかなか新鮮な発見があります。


お母さんのイケニャンは2度目の出産を終えて、どっしりとした大人の風格が出てきました。


この子はとてもおとなしいです。ご飯を食べるときも、いつも端っこにおしやられて、時々はお母さんにすら排除されてます。


なので、3つの皿に分けてあげています。どうです?ペルシャの方が大きいでしょ。





ペルシャはものすごくやんちゃで、一瞬の隙を見て私の部屋に入り込み、カンの上を走り回ります。他のネコは絶対に上がってこないのですが、私が扉を開けるのを外で待ちかまえているので阻止などできません。棗の枝でバリケードが作ってあるのですが、なんのその。



木登りも、チビコの方はまだできないのですが、ペルシャガリガリ、スイスイです。


これは、チュウ。実はもう1匹仲間が増えたのです。チュウは6月に生まれて近所にもらわれていったのですが、ご飯時にいつもやってきます。イケニャンと見分けがつかないのですが、大きさがやや小さいです。


本来、兄弟姉妹のはずですが、チュウはしょっちゅう子ネコにちょっかいを出して、ネコレスをやっています。


子ネコ同士でも威嚇しあっています。こうやってみんな大人になってゆくんでしょうね。外は氷点下の寒さですが、当地のネコたちは寒さに強いようで、夜中の1時2時でもやってきて、扉をガリガリやるので、ちょっと往生してます。だって、みんなコロコロに太って、餌は十分すぎるくらいなのに、食べ止まるということがないみたいなんです。イケニャンだけは節制というモノを知っているようですが、ペルシャとチビコは、日に日に、目に見えて大きくなってゆきます。

食糧調達

ホーチミンから帰って1週間ちょっと。ようやく身体が慣れてきました。30℃の気温差、しかも暑→寒の移動はほんとうにこたえます。しかも、村の私の部屋というのは、小さな電気ストーブがひとつあるきりなので、待てど暮らせど部屋が温かくならず、下半身が冷えて冷えてどうにもならないし、シーピンが留守中にプロパンを勝手に持ち出してしまったので、調理ということができず、数日カップラーメンを食べ続けて、どうして私だけこんなヒドイ暮らしをしなければならないのだろうと、離石のホテルに避難してしまいました。今日で3日目ですが、明日には村に戻ります。ネコが待っていますから。

というのは、今回ウチに戻ったら、また子ネコが2匹いたのです。以前にもしばらく留守にして戻ったらイケニャンがお母さんになっていた話は書きましたが、今回もまた、臨月だったはずなのに、家を出るときにはまったく気づきませんでした。トラが2匹生まれたそうで、つまりお相手は同じということなんでしょうね。でも近場でトラを見たことはないので、隣村まで出張してるんでしょうか?





この2匹が少し違っていて、1匹はフツウなんですが、1匹は毛が長いのです。ふさふさとしてまるでペルシャみたいです。このペルシャの方がものすごくヤンチャで、とにかく部屋に飛び込んでくるとなかなか捉まえることができません。すぐに炕の上に飛び乗って来て、縦横無尽に走り回ります。ごはんもよく食べるので、この子の方が少し大きいです。


ネコもやっぱり人を覚えているのですね、私が帰るとさっそくイケニャンが寄って来て、食べ物をねだります。もちろんお隣だってちゃんとあげているはずだし、私が特にごちそうをあげるわけではないのに、なぜか私のところに来たがるのです。つられて子ネコもやってきます。この写真は私の部屋の前ですが、今は日陰は昼でも0度前後という寒さなのに、イケニャンはこうやってじっと何かくれるのを待っているのです。私自身の食糧も米一粒ない状況なので、しかたなく大事に残しておいたシーチキンの缶詰を開けてあげたりするもんだから、そりゃますます寄ってきます。で、今回離石に来たのは、実は私自身とネコたちの食糧の調達がひとつの目的だったのです。




この先2か月ほどが1年で最も寒い季節です。もう無理がきかなくなっているので、ホテル暮らしもいいかなぁなどと、贅沢なことをついつい考えてしまいます。

国境を越える旅 カンボジア〜ベトナムへ

長らくのご無沙汰で申し訳ありません。理由としては、1.規制 2.多忙 3.ネタ切れ 4.うつ とまあ、この4つが様々入り混じってどんどん時間が経ってしまいました。この間一番たいへんだったのは、やはり生徒を連れてのカンボジア旅行でしたが、それも1日に生徒たちは無事帰国し、滞りなく終了しました。私は翌々日にホーチミンから西安に飛んだのですが、なにしろ気温差が30℃以上もあるので身体が慣れず、着る物も十分でないのでけっきょく離石に3泊もしてしまいました。今日はこれから村に帰ります。以下、私の仕事として、学校のHP上のブログに書いている旅の様子ですが、これをここに繰り返す元気もないので、こちらの方でご覧になってください。手抜きですみません。

http://d.hatena.ne.jp/takanotsume_terra/

紅棗がみのる森?

10日間ほどずっとブロックされていました。今朝もダメでしたが、今、突然解除されたようですね。ただし、あさってから党大会が始まるので、おそらくじきにまたブロックされると思います。

この間にどんどん気温は下がって、短い秋もそろそろ終わり、酷寒の季節に向かってまっしぐらです。村人たちは最後の収穫に忙しい時期ですが、以前と違って、そもそも農耕をしている人の数が減り、耕す面積も小さくなったのでしょうね、収穫物を何十キロも担いで行き来する、逞しい農民の姿を見ることも少なくなりました。壮年の人たちが村を離れ、残っている人は高齢化したからです。私がセッセと撮りためた映像は、すでにして貴重な記録となってしまいました。

棗は今年もやっぱり値がつかず、打棗(ダーザオ)といって、長い竿で棗を叩き落す秋の風物ともいえた音も、今年はついに一度も聞きませんでした。樹上でむなしく朽ち果てるだけです。すでに2,3年前から手入れというものをしていないので、実も小さくなり、かつてのように、パリッと引き締まった感じもなくなってきたようです。棗は自然に地下茎から新しい芽を出すので、山の斜面にはすでに過剰なほどの棗が育っていて、何十年かすると“紅棗がみのる村”ではなく、“紅棗がみのる森”になってしまうのかも知れません。

という、悲観的な思いに沈みがちですが、実はそうでもないのです。

この2,3年、人口が少なくなっているにも関わらず、ヤオトンの新築工事がけっこうあちこちで見られるのです。今もすぐ近くで、新築と大改修が始まっています。なぜだろう?私も初めの頃は不思議に思いました。こんなに人が減っているのに、いったい誰が住むの?

村人に聞いてみてなるほどと思ったのですが、彼らがいうには、村を出た人たちの多くは、やがて村に帰ってくるというのです。いくら都会の生活が快適でも、自分が働けなくなったら、高い家賃を払い、食糧を現金で購入して生活することはできないからです。息子たちがよほど稼ぎが良ければ別ですが、この数年の間に村を出た壮年の人たちの多くは、60歳も半ばを過ぎればやはり戻って来て、畑を少し耕しながら、自らのヤオトンで起居し、そして山の畑に還る日を待つ、という人生を、当たり前のこととして受け入れる用意があるから、今のうちに(都会で得た収入もあるので)家を建てておくわけです。

考えてみれば、共産党政権になってから、農民が自由に農地を離れて都会で職を得ることが許されるようになったのは、たかだか十数年前です。それまでは、農民は農地に縛り付けられていて、村を出ることはありませんでした。そしてこの十年、まさに私が村で暮らした十年の間に、状況は凄まじいまでの変化を遂げ、あちこちの村落で雪崩打つように人口が減少し、廃村になったところすら出てきました。しかしそのいわば第一期の出村者たちが、もうしばらくすると村に戻って来て、人口は増加する方向に移行するのかもしれない、というのが、最近の“建築ラッシュ”から見えてくるのです。

もちろんこれは、比較的都会(離石)に近い賀家湾村の状況からいえることであって、広大な中国にはいろんなケースが存在するでしょう。それでも、9億といわれる農民たちは、結局は大都会に分散消滅するのではなく、農地に戻り、大地にへばりついて、家族を守り、逞しくしたたかに、生きて死んでゆくのではないか、中華民族はそうやってウン千年を生き抜いてきたのだと、そんなこんなで、自らの卑小さをあらためて振り返る秋の一日でした。

(途中でまたブチ切られるんじゃないかと思って、大慌てで書きました。意味不明ですかね?)

コンポン・プルック

私がバイクにはねられた時に親身になって面倒をみてくれた、ホテルのマネージャーのセイハーとは、今もときどきメールのやり取りをしています。英語のやり取りなんてほんとうに何十年ぶりかなので、辞書引き引きやってます。その彼からついおととい、シェムリアップは大雨が続いてあちこちで洪水になっているというメールが来ました。

それで改めて思い出したのが、トンレサップ湖の畔に位置する、コンポン・プルックという村です。街中の旅行社で、半日コースで手ごろなツアーがあったので、何の予備知識もなく参加を申し込んだのですが、いろいろ考えさせられることの多い村でした。


シェムリアップでは実にさまざまなツアーが企画されているのですが、ありがたいことに、ほぼすべてのツアーが“送迎付き”で、泊まっているホテルまで迎えに来てくれます。それで、あちこちのホテルで客を拾って、船着き場まで1時間ほど。欧米系、南アジア系、韓国・中国人と国際色豊かで、ここからボートに乗り換えます。ちなみに、日本人というのは、別建ての観光バスを使うのでしょうか、シェムリ滞在中一度も“同席”したことはありませんでした。



ボートはマングローブの林の間を通って、北上(南下?どっちだろう?)します。このトンレサップ湖というのは、雨季と乾季で水の量がまったく異なっていて、雨季には何倍(検索ができるようになったら、正確な数値を入れます)かに膨れ上がるそうで、私が行った時は、雨季の初めの方でした。



これは、ボートの中から見た、コンポン・プルック村。村人たちは、トンレサップ湖で獲れる魚を売って生計をたてています。つまり漁村です。この湖に棲む魚の種類の多さは世界一だとか聞きました。


しばらく湖面を走ってから、ボートは村に上陸します。建物の向こう側は湖面です。みな漁に出ているからでしょう、村は閑散としていましたが、小さな子どもたちは裸足で駆け回っていました。


上陸するといっても、村自身には特に見る物があるわけではなく、フツウの(というか、貧しい)漁民たちの生活圏です。若い人たちは屈託なく子どもたちと自撮りなどしていましたが、こういう状況は、どうしても私は引っかかってしまうのです。私たちは否応なく“観光客目線”にならざるを得ないし、私自身、時にその“貧しさ”を被写体として求めてしまうようなところがないとはいえないからです。プロ、アマを問わず、カメラという強力な“武器”を持ってしまうと、人の心は傲慢になってしまうのではないかと思っています。もちろん、それを乗り越えて素晴らしい写真を撮る人はたくさんいるし、1枚の写真が世界を感動させることはありますが、どうも私のような“小心者”には、カメラを持つ手を引かせてしまうことがままあるのです。



村の中に小さな商店を営んでいる家が2,3軒ありました。


カンボジアは犬が多いです。比較的大型で短毛の、いかにも雑種犬がほとんど。みな自由気ままな暮らしぶりで、日本のペットとはまた違いますが、大切にされているのがわかります。


あいにくの天気でしたが、これがトンレサップ湖。もう遥かな海原です。


実は、上陸した地点に小学校がありました。授業はない時間帯で、教室の中に子どもたちの姿は見られませんでしたが、校舎のすぐ傍らではたくさんの子どもたちがサッカーの真似事やゴム飛びをして遊んでいました。ぼんやり見ていると、身なりも雰囲気もいかにも“先生”といった感じの若い女性が近づいて来て、子どもたちのためにノートや鉛筆を買ってくれないかというのです。

一瞬奇異に感じましたが、フツウの物売りとは違って流暢な英語を話し、おしつけがましさもありませんでした。私は2塊の鉛筆の束を買って、すでに様子を見て集まって来た子どもたちに配ろうとすると、その女性は、子どもたちに直接あげないで、校舎の中にいる先生にあげてくれというのです。なるほど、そうやってなるべくみんなに行き渡るように配った方がいいかも知れないと私は思って、階段を上って職員室らしき部屋に向かいました。そこには男性がひとりいたのですが、やはり先生らしい、きちんとした身なりの人でした。私は彼に鉛筆の束を渡したのですが、チラと片隅を見ると、そこには鉛筆やノートがごっそりと積み上げられていたのです。

私が渡した鉛筆の束は、直接子どもたちの元に行くのではなく、恐らくは“先生”たちの手によって再び三度、世界中からやって来る観光客に売られるのでしょう。私は、彼らはニセモノではなく、ほんとうに先生だったと思います。ただ、そうやって現金に替え、そのお金がどのように使われるのかはわかりません。それが子どもたちの教育のために使われるのなら、どんな方法であってもかまわないと思います。個人的にいえば、“慈善家”のような顔をして、子どもたちにモノを配るのは好きではありません。すっきりしないものが残りましたが、先生たちの熱意と善意を信じて、湖畔に建つ小さな学校をあとにしました。


この問題になぜそんなにこだわるかというと、11月の学校ツアーの時に、生徒たちを連れて、この村に行くことを予定しているからです。ウチの学校には、支援やボランティアということに関心が強い生徒が多く、将来の進路として福祉をめざす子がものすごく多いのです。それには理由があるのですが、長くなるので割愛します。

現代っ子の生徒たちにとっては、おそらくこれまでに見たことがない“貧しい”村です。裸足の子どもたちが寄って来て、“Give me one dollar.”と手を差し出したら、心優しい生徒たちは果たして1ドルをあげるのかどうか?そしてそれは“支援”になるのかどうか?ということを考える場になってほしいと思っています。