紅棗がみのる森?

10日間ほどずっとブロックされていました。今朝もダメでしたが、今、突然解除されたようですね。ただし、あさってから党大会が始まるので、おそらくじきにまたブロックされると思います。

この間にどんどん気温は下がって、短い秋もそろそろ終わり、酷寒の季節に向かってまっしぐらです。村人たちは最後の収穫に忙しい時期ですが、以前と違って、そもそも農耕をしている人の数が減り、耕す面積も小さくなったのでしょうね、収穫物を何十キロも担いで行き来する、逞しい農民の姿を見ることも少なくなりました。壮年の人たちが村を離れ、残っている人は高齢化したからです。私がセッセと撮りためた映像は、すでにして貴重な記録となってしまいました。

棗は今年もやっぱり値がつかず、打棗(ダーザオ)といって、長い竿で棗を叩き落す秋の風物ともいえた音も、今年はついに一度も聞きませんでした。樹上でむなしく朽ち果てるだけです。すでに2,3年前から手入れというものをしていないので、実も小さくなり、かつてのように、パリッと引き締まった感じもなくなってきたようです。棗は自然に地下茎から新しい芽を出すので、山の斜面にはすでに過剰なほどの棗が育っていて、何十年かすると“紅棗がみのる村”ではなく、“紅棗がみのる森”になってしまうのかも知れません。

という、悲観的な思いに沈みがちですが、実はそうでもないのです。

この2,3年、人口が少なくなっているにも関わらず、ヤオトンの新築工事がけっこうあちこちで見られるのです。今もすぐ近くで、新築と大改修が始まっています。なぜだろう?私も初めの頃は不思議に思いました。こんなに人が減っているのに、いったい誰が住むの?

村人に聞いてみてなるほどと思ったのですが、彼らがいうには、村を出た人たちの多くは、やがて村に帰ってくるというのです。いくら都会の生活が快適でも、自分が働けなくなったら、高い家賃を払い、食糧を現金で購入して生活することはできないからです。息子たちがよほど稼ぎが良ければ別ですが、この数年の間に村を出た壮年の人たちの多くは、60歳も半ばを過ぎればやはり戻って来て、畑を少し耕しながら、自らのヤオトンで起居し、そして山の畑に還る日を待つ、という人生を、当たり前のこととして受け入れる用意があるから、今のうちに(都会で得た収入もあるので)家を建てておくわけです。

考えてみれば、共産党政権になってから、農民が自由に農地を離れて都会で職を得ることが許されるようになったのは、たかだか十数年前です。それまでは、農民は農地に縛り付けられていて、村を出ることはありませんでした。そしてこの十年、まさに私が村で暮らした十年の間に、状況は凄まじいまでの変化を遂げ、あちこちの村落で雪崩打つように人口が減少し、廃村になったところすら出てきました。しかしそのいわば第一期の出村者たちが、もうしばらくすると村に戻って来て、人口は増加する方向に移行するのかもしれない、というのが、最近の“建築ラッシュ”から見えてくるのです。

もちろんこれは、比較的都会(離石)に近い賀家湾村の状況からいえることであって、広大な中国にはいろんなケースが存在するでしょう。それでも、9億といわれる農民たちは、結局は大都会に分散消滅するのではなく、農地に戻り、大地にへばりついて、家族を守り、逞しくしたたかに、生きて死んでゆくのではないか、中華民族はそうやってウン千年を生き抜いてきたのだと、そんなこんなで、自らの卑小さをあらためて振り返る秋の一日でした。

(途中でまたブチ切られるんじゃないかと思って、大慌てで書きました。意味不明ですかね?)