閻錫山エピソードあれこれ

先回の「双塔寺」をアップするときにおことわりをするべきだったと思うのですが、下の六文銭さんのコメントを読んで、やはりこれはいけないと思い、改めておことわりです。

「山西王」とも呼ばれた閻錫山に関しては、当地では毛沢東に並ぶくらいの有名人で、彼に関するさまざまな話題が、尾ひれも含めて膨大に語り継がれています。とりわけ当時を知る老人たちにとっては、彼の出自から辛亥革命、抗日戦争、国共内戦、台湾逃亡……と話題は尽きず、日本でいうならば、ちょうど“講談ネタ”の宝庫ともいえる人物なのです。

この8年の間に私が会った老人たちの中でも、閻錫山の話をする人は多く、特に八路軍兵士として戦った経験がある人は、もうほとんど自分が直接閻錫山やその時の状況を見てきたような話し方をします。双塔寺の塔に隠れていたとか、飛行機が重すぎて離陸できなかったなどという話も、私は当地の老人たちから聞いていますが、これが史実として正確かどうかはイマイチ不明なのです。
もっとも、私はこうやって直接人の口から口へと語り継がれる歴史にとても興味があるので、そのせいもあってこの地にすでに8年という時間が流れてしまいました。

で、最初に戻りますが、それはそれとして、不特定の人がごらんになるブログにアップするのだから、やはり文献にあたっておいた方がいいと考え、この3日間ほど、手元にある『強撃太原城 国共生死大決戦』という本をバラバラめくってみました。当たり前のことですが、全文中国語なのと、普段は使わない難しい単語の連続なのでなかなか読み進む事ができないのですが、それでも次から次へと興味深いエピソードがてんこ盛りなので、今日はその中からいくつかかいつまんでご紹介したいと思います。

ただし、編著者は「軍旅文学作家」とあり、小説ではないにしても、いわゆる「戦記モノ」というジャンルで、八路軍人民解放軍)のことを、「わが軍は……」と表記しています。写真は中国版Wikiなどから。引用がほとんどなので、閻錫山なんて知らないよ、という方はスルーして下さい。

太原陥落のとば口は、1948年7月の「晋中戦役」で切って落とされます。晋中というのは、太原の南にあり、小麦の産地として、閻軍の糧秣基地だったようです。戦闘は約1か月続き、人民解放軍6万で、10万の閻軍を破り、このときにすべての閻軍は太原へ撤退し、その後は籠城戦となるわけです。

ちなみに、中国の都市は古来より都市の周辺を城壁で囲んで、門を設置して、そこからしか出入りできません。太原城というのも、日本のような城郭があるわけではなく、城壁に囲まれた内部のことをさします。

蟻の兵隊”たちもこの戦闘に参戦しており、この写真が本の中にもネット上にもありましたが、直接この写真に関する文章は見つけられませんでした。キャプションは;

「晋中戦役中、閻錫山所部十総隊(日本総隊)被我軍俘虜的部分日本軍官。」

写真とは別のネット上の記事では、この晋中戦役のとき、総攻撃をかけた第十総隊の大部分が戦死、総隊長の原泉福少将他7名の将官が自決したという記述がありました。

閻錫山は太原城の周りを1万のトーチカでかため、自らの故郷である五台山から棺材を取り寄せて棺桶を作り、500人分の青酸カリを用意して、徹底抗戦を決意します。(写真右手が、箱から出している青酸カリ、米人記者撮影)

当時太原に駐在していた米人の新聞記者に、閻錫山は次のようにいったというエピソードが残っています。

「3000名の日本兵の中から最も“武士道精神”に優れた者をひとり選び、常に銃を身につけさせて、ついに最後の時が訪れたならば、躊躇することなく自分を撃つように命令している。この任務が成し遂げられるのは日本武士しかいない。」

もっとも、これに関して、ある解放軍将官は、後に自著の中で、「閻錫山にはそんな度胸はない。棺桶はアメリカ人と蒋介石に見せるためのもの。毒薬?おおむね彼の部下のために準備したのさ。」と記しています。

閻軍による要塞の補強工事が進む中、10月から人民解放軍8万の兵で「太原外圍作戦」が展開されます。太原城周辺には、牛駝寨、小窑頭、淖馬、山頭の四大要塞というのがあり、これらの狭い陣地をめぐる攻防戦が、国共内戦の中でも最も熾烈をきわめた戦闘のひとつといわれています。破壊された陣地を補強する土もなく、死体を積み上げて敵の銃弾を防いだという記録すら残っています。

そしてこの一時期に双塔寺に総司令部が置かれていたようです。双塔寺が砲撃されたのは、10月21日のようですが、閻錫山がいたかどうかまでは、この文献でははっきりしませんでした。

四大要塞の中で最大堅固なものは、太原城から東北へ5キロの牛駝寨要塞(現在は太原市に含まれ、記念館がある)で、ここでの戦いは太原戦史上最も熾烈、最大の犠牲者を出したところとして、当地の人ならほとんど誰でも知っている地名です。この戦いがいかに激しくいかに困難であったかという話は、私が直接会った老人たちからも何度か聞きました。日本兵と戦ったという人も3人いましたが、うちひとりは、いよいよ日本兵が出てきたことがわかって、命がけで逃げたということです。武器も全然違うし、陣の組み方が違うので、すぐにわかるのだそうです。

牛駝寨要塞には10ヵ所の陣地があり、周りにそれぞれ3〜4のトーチカがあり、高さ3〜4mのコンクリート製の防壁をめぐらせて有刺鉄線をはり、各陣地には3〜5門の迫撃砲を備えていたようです。この要塞は、もとは日本軍が構築し、後に閻錫山が補強したものです。

人民解放軍が攻撃を開始したのは10月17日、翌18日の午前8時半頃(戦記モノなので、ここらへんはやたら詳しい)「独立第十総隊」が出撃、班長以上が日本人で、兵士は中国人だったようです。(これ以上の記述はなし)。牛駝寨は1か月後に陥落。

10月27日小窑頭陥落、第十総隊1連隊を全滅させたという記述がありました。外圍作戦すべてでの死者数は、閻軍が1万余、解放軍が8500余人。

原城は完全に解放軍に包囲され“紅海孤島”状態が続くのですが、部下には徹底抗戦、太原死守を命じた閻錫山は、49年3月29日、6、7人の側近と共に、ひそかに太原を離れ南京に向かいます。4月12日には蒋介石と会談しています。

4月21日、和平交渉が決裂して、解放軍は太原進攻開始。民国時代に大修理された城壁は、高さ12m、上辺の幅6〜10m、厚さ2m、100mごとにトーチカがあって、全中国的にも堅固な城壁として名が通っていたようです。

私はこの太原城の戦いに参加したという人ともひとり会っていますが、長い梯子をいくつもいくつもかけて、この城壁をよじ登る戦いで、梯子が倒れ、倒されて何人もが死んだといっていました。

24日、解放軍が総攻撃をかけ、総司令官が遁走してしまった閻軍はあっけなく敗退し、ここに38年間続いた「閻王国」は幕を閉じることになるのです。

太原陥落のエピソードとして多く、かつ悲劇的に語り継がれているのは、もちろん閻錫山ではなく、後事を託された山西省代理主席の梁化之と閻錫山最愛の女性だったといわれる閻慧卿のことです。とりわけ閻慧卿は「五妹子」(5番目の妹という意味、実際にはいとこ)と呼ばれて、閻の身の回りのすべてをとりしきり、戦況が不利になってからは、閻は彼女の作ったものしか食べず、神経がいらだって眠れないときも、彼女が枕辺によりそい、寝付くまで話をして聞かせたそうですが、愛人関係ではなかったようです。

梁化之と五妹子は、24日、太原陥落を覚悟し、省政府の地下室で服毒自殺します。遺体は、敵の手に渡ることを恐れて、ガソリンをかけて焼かれました。五妹子が最後に閻錫山に向けて打った電文は梁化之が代筆していて「閻慧卿至閻錫山的絶命電」として残っています。自分をおいてひとり逃げてしまった閻錫山への恨み言はいっさいなく、「……今生の別れ、来世で会いましょう、この電報を打っているいま、私はこの世にいますが、あなたがこれを読むときはすでにこの世にはおりません、外は火の海、裏山は崩壊、死は目前、心は平安です……」

梁化之は閻錫山のいとこの息子。山西大学文学部英文科卒業後、閻錫山の秘書を勤めていて、まじめで頑固一徹な人間だったようです。彼は死の直前に「他の人は投降してかまわないが、自分はできない、なぜなら、かつては共産党と密接な関係にあったからだ」と言い残しています。

閻錫山が用意した500人分の青酸カリを実際に使った人は数十人、けっきょく自殺者は46人だったようです。

閻錫山はその後12月9日、四川省成都から、金塊の詰まった2つの箱を抱えて台湾に逃亡します。その後は政治の表舞台には出ず、執筆活動に専念し、1960年、78歳で病死しています。

畢竟、閻錫山はどのような人物であったかというと;
「彼は“銭の亡者”の出で、そろばんをはじくことには非常にたけていた。敵と自分の双方の力量をはかりの上にのせて計算し、ただ、自分の力量が敵を大きく上回るときだけその態度を決定した。」(南方周末人物周刊)

*南方周末というのは、中国で最もリベラルなメディアといわれている週刊紙