牛駝寨要塞 廟碉(miao diao)

タイトルの「碉」という字が日本語にはなくて、中国語で入力していますが、表示されていますか?石ヘンに周という字で、diao-トーチカという意味です。

さて、自分の部屋でネットが繋がるようになったので、まず何をしたかというと、「牛駝寨要塞」に関して、中国語で検索をかけていたのです。というのも、烈士陵園で聞いたときには、当時のものは何も残っていないと、しかも強い否定口調でいわれたのですが、それをいったのは、陵園を管理している庭師のおっさんでした。だいたいが中国の一般庶民は、テキトウなことをさも真実であるかのようにいう傾向があって、“信用できない”ところがあります。ほんとうに何も残ってないのだろうか?

予想は的中どころか、肝心かなめの要塞の司令部だった「廟碉」が残っていることがわかったのです。かえって拍子抜けするくらい最重要情報なのですが、こういったデータが紀念館には何ひとつ展示されていなかったのです。


そもそも牛駝寨要塞がどのくらいの大きさであったのかもわからず、これは今の所ネット上でも見つけることができないでいます。

太原道というサイトに航空写真がアップされていました。烈士陵園から廟碉までは、歩いて1時間だそうですが、軍事オタクとか、撮影マニアとか、マニアックな人々が見に行くようで、道はちゃんとしているようです。


前にも書きましたが、牛駝寨要塞は、日本軍が建造したものを、戦後に閻錫山が補強したものですが、そもそも閻錫山は、自らの根拠地である太原を守るために、戦後日本人技術者(これは軍人ではなく、河本大作が画策して残留させた民間人でしょう)の指導の下に、「要塞建造局」を設置して、太原城(中国の都市はみな城壁で囲まれた城郭になっている)の周りに、5000基の要塞を建造したそうです。その中でも牛陀寨は最強堅固なものといわれていて、10基の碉ートーチカがあり、それぞれのトーチカの周りに3,4基の副トーチカがあったようです。そしてその司令部を、やはり日本軍が建造した4号トーチカに置いていましたが、それが廟碉です。形が廟に似ているからとか、元々老爺廟という廟があったところに建てたからとか書いてありましたが、当時廟碉は「碉王」つまり、トーチカの王と呼ばれていたそうです。烈士陵園が何号トーチカのあたりに作られているのかわかりませんが、いずれにしろ壮大な規模の要塞だったことがわかります。


この廟碉は地下要塞になっていて、司令室の天井までの高さは9mあり、レーダーが設置されていて、各トーチカに通じる地下道は、4列縦隊が通れるほどの広さがあったようです。すべての指令がここから出ていたようで、残留日本兵は主にこのトーチカにいたのではないかと思います。

映画「蟻の兵隊」は2006年に公開されたそうですが、廟碉に撮影隊が来ていたようです。私はまさにその頃に、当地の元八路軍兵士から、残留日本兵のことを聞きました。その頃はまだこの問題に今ほどの関心もなく、言葉の問題もあって、詳しい話を聞く機会もないままに時間が過ぎて、すでにみな亡くなってしまいました。

私がなぜこの問題にそれほどこだわるかはまた別の機会に書きますが、とにかく、もう一度太原に行って、廟碉を見てきます。ただし、烈士陵園まで徒歩1時間、そこからまた山道を1時間かかるわけで、今の時期では熱中症が怖いです。あまりあたらない天気予報をにらみながら、時期を見て決行します。