双塔寺

塔寺というのは俗称で、正式な名称は「永祚寺」といいます。

もともとは、左側にある「文峰塔」だけだったようで、1599−1602年に建立されました。その後(1608−1612年)に右側の「宣文塔」と、本殿である「大雄宝殿」が建てられました。すべて石造で、塔の高さは共に約55mです。

本殿の前の線香立て(じゃないよね、何ていうんでしょう?)。中国の寺の線香はこんなにデカイのです(普通サイズもあり)。ご利益もきっと。。。

ご本尊の釈迦牟尼仏。日本の仏像は美術品としても素晴らしいものが多いけれど、中国のは、なぜか安っぽいハリボテみたいなのが多いんですよね。文革が関係しているのでしょうか?

植えてあるのは牡丹です。境内至るところに数千株植えてあり、明代から咲き続けている牡丹もあるそうです。開花の頃はさぞかし美しいだろうなぁ、見てみたいなぁと思いつつ、同時に人の多さと、声の大きさに思い至ると、やっぱり止めておきます。

いかにも中国的な階段。

今回、私が最も興味深かったのはこの「断臂獅」。説明板によると;
抗日戦争時、太原に侵攻した日本軍は、天然の要塞である双塔寺に兵を駐屯させた。ある夜、ひとりの軍官が夢の中で2頭の獅子に追いかけられ、文峰塔まで逃げたけれど、追いつかれて頂上から突き落とされた。目が覚めてから境内に出てみると、ちょうど1対の獅子を見つけ、夢に出てきた獅子はこれに違いないと、母獅(メス)の右腕と公獅(オス)の左腕を軍刀で切り落とした。そして首をはねようとすると、突然軍官は倒れ、口から泡を吹き、けいれんを起こしてその場で死んでしまった。日本軍は双塔寺を撤退し、以降寺に近づくことはなかった。2頭の獅子が塔を守り、邪悪を追い払ったのだ。

しかし私はこの話は眉唾ものだと思います。いかにも作り話っぽいし、第一、軍刀でこんなに大きな石の獅子が切れるわけはありません(現在は修復されている)。

そもそも、双塔寺文化財を破壊したのは、日本軍より、国共内戦時の閻錫山軍と八路軍だったはずです(中国版Wikiにも書いてある)。なにしろ7000基のトーチカを造ったといわれる閻錫山(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E9%8C%AB%E5%B1%B1)ですから、こんなおあつらえ向きの塔が2つも並んでいる双塔寺を放っておくはずはありません。彼はここに篭って八路軍と対峙し、“紅海孤島”の中で激しい戦闘が繰り広げられたのです。で、500人だかの兵に青酸カリを配って、落城のときは共に死のうといっておきながら、最後は自分だけ飛行機で南京へ逃げた(後に台湾へ、1960年死亡)というんだから、とんでもない男です。しかも、逃げるときに金銀財宝をしこたま積み込んで、重すぎて飛行機が離陸できなかったという話を、この500人の中のひとりから直接聞いたという元八路軍兵士から、私は聞いたことがあります。

太原陥落寸前に閻錫山の行方がわからなくなり、側近を捕まえて吐かせたら、寺の塔の中に隠れているということがわかって、八路軍はいっせいに宣文塔を攻撃したわけで、塔はひどく破壊され、1984年に修復されたと、これも中国版Wikiにちゃんと書いてありました。上記の獅子も、日本軍や八路軍がこんなふうに破壊する理由はみつからず、これは文革ではないかと、私はにらんでいます。

宣文塔を見上げながら、あぁ、じいちゃんがいってた、閻錫山が隠れていた塔って、これか、と思いながら、小雨がしょぼ降る中、60年前の出来事をしばし、かすかにイメージしながら、私の山西省暮らしも長くなったものだなぁと感慨ひとしおでした。

訂正;八路軍とあるのは、人民解放軍の誤り。このときにはすでに名称が変わっています。