「山西省残留日本兵問題」 中国のネットから

この数日来、中国のサイトで“残留日本兵”問題を探っていました。当然のことながら、日本人の側からの記述ではなく、中国人の側から見た、太原戦役あるいは閻錫山に関する膨大な記述の中に、残留日本兵問題は散見されます。

私たち日本人は、ともすれば、“残留日本兵”に対して、悲劇性にも近い感情を抱きがちで、私自身も、“腰の太鼓を打ち鳴らし、南無妙法蓮華経を唱えながら果敢に突撃していった”若い日本兵に思わず涙してしまったくらいです。

しかしながら、中国人にとっては、“戦争は終わり、無条件降伏したはずなのに、まだ残って解放軍の兵士を殺し、中国の民衆を苦しめた、許しがたい非道な日本人”であるのは、これまた当然なわけで、“残留”の過程がどのようなものであったかはほとんど関係ないでしょう。

私は、『蟻の兵隊』も観ていないし、この問題に関する本も読んだことがないので、ご紹介する中国人が記した“残留日本兵問題”が、日本側の視点とはどこがどのように違うのか、またどの部分が周知の事実なのかはわかりませんが、関心を持っていらっしゃる方にとっては、興味深いのではないかと思い、ここにごく一部分をアップします。

ただし、私の中国語能力からいうと、かなり高度な中国語が多いので、読み切れない部分、ときには、読み違えている部分もあるかもしれませんので、ご承知おきください。また、あくまでネット上で拾ったもので、公的な研究書などではなく、老人たちの証言や、民間の歴史家が書いたもの、個人のブログなどを参照して私なりにまとめたものです。なお、(*…)内は、私が書き加えたものです。
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1945年8月初め、すでに敗戦を予測していた日本軍首脳は、華北派遣軍参謀長高橋坦中将と、駐太原第1軍参謀長山岡道武を、孝義(*離石から南東へ100キロほど)の揺圃村にいた閻錫山の元に派遣し、秘密会談を行った。高橋は閻に、「米ソ等同盟国にではなく、中国に投降したい。その方があなたにも蒋介石にも有利ではないか」と持ちかけると、閻は、「日本軍を残留させ、投降する前に中国軍の軍装をさせ、中国軍の番号を付け、武器はそのままで中国軍の中にまぎれこめば、投降しなくてもよいではないか。華北の日本軍が我々に投降すれば、改編して中国軍の番号を与え、重慶政府に報告する。これは日中双方に利益があるし、特に日本には利があるはずだ。これは私個人の打算ではなく、中日両国が共同して共産勢力と闘うための国策である。」と答えた。このとき高橋は回答を保留し、北京に戻っている。


日本が投降して以降、八路軍は破竹の勢いで山西境内の村々を指揮下に収め始めた。国民党の重慶政府は遠く離れているために、日本軍の武装解除すらままならない状況で、閻は焦りを覚え、日本軍を自らの指揮下に残留させる案を、いよいよ真剣に考え始めるようになる。


後に、“残留運動”を画策した中心人物のひとりである、山西省公署顧問輔佐員の城野宏は、次のように語っている。「日本が投降して後、閻錫山が太原に戻る途中、平遥駅で日本軍第一軍直轄特務隊―櫻部隊を閲兵したことがあった。閻は一方で閲兵しながらも、他方で目を細めて微笑んでいた。そして列車の中で、閻を迎えに来ていた日本軍参謀長の山岡道武に向かって、「この部隊を私にくれないかね?」といった。その時の態度は実に真剣そのものだった。これこそまさに、閻錫山が太原に戻る途中、自分の目で見た“武士道”精神にのっとって訓練された日本の軍隊で、彼に羨望の念を起こさせ、日本軍残留の計画を改めて決心させるものだった。」(*閻錫山は2年間の日本留学経験があり、1909年に東京市ヶ谷の陸軍士官学校を卒業している。“統率のとれた”日本の軍隊に強いあこがれを抱いていたと思われる。なお、城野宏は東京帝国大学法学部卒、南原繁の門下生だったというインテリで、政治活動、情宣活動の中心を担っていた。)


9月1日、日本軍司令官澄田来四朗(*来は、貝ヘンに來)と参謀長山岡道武が、太原の綏晋公署(*日本の市役所にほぼ相当する)で閻錫山と会談し、閻は山西境内に留まっているすべての日本兵を、自分に預けて改編させて欲しいと、正式に申し入れた。閻は、「侵略は日本軍閥と政府の政策であり、一切の責任は彼らにある。一般の軍人は上官の命令に従っていたに過ぎない。中日両国は共通の文化を持っている国であり、戦争が終わった以上、お互いに助け合って、日本の科学技術と中国の資源と労働力をもって、両国人民の共同の福祉のために働こうではないか。」と語っている。澄田はこのときは、すべてを保留にしている。(*澄田は陸軍士官学校を1912年に卒業しており、閻とはすでに顔見知りであった可能性もある。)

9月3日、閻は改めて、日本軍部隊の中級以上の人間を集めて、中日の交戦は終了した。これからは我々の復興と建設を手伝ってほしいと語り、日本人俘虜や民間人は、人道的な取り扱いをし、もしも虐待等の事実が発覚すれば、法によって厳格に対応する等、日本人の意向に迎合する発言を繰り返すことになる。閻の思惑としては、彼らは日本国が滅びゆくのを現前にして自らの進退をどのようにすべきかわからなくなっている。特に参謀長山岡道武、参謀岩田清一、城野宏等一部の“頑固分子”は、同盟国の審判を受け入れるのを恐れているので、むしろ閻の要求を受け入れて中国に残留する道を選ぶだろう。

投降の事実を受け入れたくない“頑固分子”たちにとって、捲土重来を期するためには、閻の庇護のもとに日本軍の勢力を温存させる必要があり、ここに利害が一致して残留の方向で話が進展してゆく。しかし、すべての兵の残留を望む閻に対して、英米ソ等、特に中共の反対を恐れる日本側とで最終的な合意には至らず、けっきょく5日間の談判の後に、一部の兵力ということで合意を見ることになる。

このときに閻が提示した条件は以下である。

1.残留日本兵は、すべて閻錫山の指揮下におくこと。かつ、あくまで日本人の志願の形をとること。除隊手続きを終え、復員手続きを終えること。
1.すべての日本兵を軍官待遇とし、現在の階級から3階級特進させること。
1.宿舎を用意し、かつ営外居住を認めること。(*食に関しても特別待遇だったようで、後年食糧事情が逼迫して、中国兵には高粱メシしか出なかったときでも、日本兵には白米が支給され、それに抗議するデモなどが発生したという記述もある。)
1.残留期限は2年間とし、閻の側で帰国の責任を持つこと。
1.日本の交通が回復したら、家族を呼び寄せることを許可すること。
1.日本人のための商店、学校、病院、倶楽部、社団、新聞社、慰安所を用意すること。
1.日本軍人と中国人女性との結婚を歓迎すること。

閻はこの合意に満足し、澄田を閻の軍事顧問、山岡を副顧問に招聘し、太原城内の治安維持を要請している。そして数日後には、太原城内に次のような布告が貼り出されることになる。

「布告;日本軍は8月17日をもって戦闘行為を停止している。しかしながら、いまだ挑発行為を行ったり、意図を持って鉄道、道路を破壊しようとする者には、厳罰をもって臨むものである。山西日軍司令官」

同時に、太原市に残留していたすべての日本人居留民に、山西日本派遣第1軍司令部の名前で、以下の通知書を発送する。

「山西派遣軍は晋綏軍(*閻錫山の軍)の要請により、一部の兵力を残留させ、晋綏軍の剿共(*剿=討伐する)に協力することとなった。北京に移動しようとしている居留民は、しばらく太原に留まること可能である。」

しかし、とりわけ下の階級の兵たちはみな復員したがり、閻の希望通りにはなかなか人が集まらなかった。そこで残留工作が推し進められることになり、閻自らも遊説にまわることになる。日本側では城野宏等が中心になり、活発な工作が行われるが、次第にそれは「もし、閻錫山の要求する1万5千人に及ばなければ、日本軍が山西で犯した数々の罪、殺人や略奪や強姦等々について戦犯として裁かれるので、帰国の望みはなくなる。」という恫喝に変わってくる。こうして最終的には希望通りのほぼ1万5千人の日本兵を獲得することに成功するのだが、対外的には日本兵の残留は秘密となっており、ひとりひとりの日本兵に中国人の名前をあてがい、国民党の軍装をさせ、国民党の武器を携帯させた。


同時に、一般居留民に対しては、1928年に張作霖を爆殺した悪名高い関東軍高級参謀河本大作が残留工作の中心となり、技術者、医務人員およびその家族等、1200人を残留させている。(*山西省は資源が豊かであることと、日本びいきの閻錫山の招聘もあり、早い時期から日本企業の進出は盛んであった。敗戦時には2万人の民間人がいたといわれる。この中には戦争末期に現地招集され、その後除隊となった退役軍人もいた。河本大作は1942年に、国策会社「山西産業株式会社」の社長となり、戦争が終わって中国に接収され「西北実業建設公司」に名称が変わってからも、閻の要請により、最高顧問として太原に残留していた。また、A級戦犯に指定されていた澄田の無罪釈放を画策して奔走している。この民間人の残留問題に関しての詳細は、中国のネット上では、今のところほとんど記述がみつかっていない。)

こうして、太原は表通りから裏道の隅々にまで、日本軍が猖獗を極める事態が出現するようになる。「日本は決して戦争に敗けたのではない。あと十年経てば、必ずや捲土重来の期が訪れるだろう。」というデマがどこに行ってもささやかれた。ほとんどの日本兵は元々の軍服をそのまま着用し、実弾を銃に込め、街中をうろつきまわった。

こういった閻一派の動きをいち早く把握していた八路軍は、1946年1月の段階で次のような通告を出している。

「日本軍は投降したにも関わらず、依然として戦争が終結する前と同じ武器を保持し、各主要拠点に兵力を集結させているが、これは明白なるポツダム宣言違反である。」

46年2月1日、太原で特務団の結成式が行われたが、表向きは技術者集団を装い、「鉄路公路修復工程総隊」という名称を使っている。実数およそ5000余人。司令趙承綬、副司令元泉馨、参謀長岩田清一で、6つの隊に分れて、太原、楡次、晋源、陽泉などに駐屯し、閻軍の反共内戦の闘いを準備した。元泉は、「日本軍の軍服をただちに脱ぎ捨て、閻閣下の反共戦争を共に戦う、死んでも悔いはない。」と閻に表明している。(*元泉は後に晋中戦役で重傷を負い拳銃で自決。ネット上には、狂信的な武士道精神信奉者で割腹自殺したという記述もある。)

特務団の編成が完全には終わっていない時期に、国民党、共産党アメリカの三方小組が内戦の調停のために山西に派遣される。国民党が投降した日本軍の兵士を改編して利用しているとの共産党からの強い指摘で、三方の代表が実際に戦場に査察に赴き、閻錫山の軍の中に日本兵がいることを確認する。3月になって、三方小組は、残留している日本兵をただちに帰国させるよう、閻に強く要求した。閻も要求をのまざるを得ず、形式的に特務団を解散する。この時に多くの日本兵が帰国し、1万人の特務団員は2600人に減少した。

47年、残った特務団員を改編して、暫編独立第十総隊を結成。今村方策を総司令、岩田清一を副司令とし、元泉馨を野戦軍副司令、城野宏を政治部長とする。同時に閻の提案で日本人の士官学校を作り、岩田を責任者とした。閻はこの他にも、大同に残留していた1000名近くの日本兵を結集させて、「大同保安総隊」を成立させている。
つづく 
(*今ものすごく忙しくて滞っていますが、しばらくお待ちください)