久々の太原。。。つづき

また全部消えないように、少しづつアップしながら。。。。下書きをテキストに書いてからアップすればいいとおっしゃるでしょうが、それが私にはできないのです。小さいころからずーーーーっと。“ぶっつけ本番”でないと何もできない性格なんです。死ぬまで変わりません。ぶっつけ本番で死ぬつもりです。

これまで太原には、帰国時の行き帰りに寄るので何かと気ぜわしく、いつも駅と宿の往復だけでしたが、今回ようやく手ぶらな時間が取れたので行ってみたいところがありました。「牛駝寨烈士陵園」というところです。牛駝寨要塞というのは、太原市の北東部にあって、第二次国共内戦の最後の山場であった太原戦役の中でも、もっとも激烈な戦闘が繰り広げられたことで有名です。日本軍が建設し、撤退後に閻錫山が補強したもので、太原一の堅固さを誇る要塞だったようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E6%88%A6%E5%BD%B9

1948年10月に始まった太原戦役は、半年後の翌4月24日に終結するわけですが、その間の国民党の戦力は10万人、共産党の戦力は30万人といわれています。そして国民党の死傷者は10万人。その10万人の中に、少なからぬ日本人兵士が含まれているのです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E8%A5%BF%E7%9C%81%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E6%AE%8B%E7%95%99%E5%95%8F%E9%A1%8C

この、日本軍残留兵士のことについては、いまは、みなさんもよくご存じだと思いますが、『蟻の兵隊』という映画が公開されるまではほとんど知られていませんでした。しかし、これまでに私が取材した元八路軍兵士たちの中でも、直接戦闘に参加したか否かにかかわらず、“牛駝寨要塞は日本人が守っていた”という話はたびたび出てくるのです。最初は中国人と闘っていても、そのうちに主力の日本兵が出てくると、自分たちは逃げたというのです。日本兵は武器も違うし、布陣の組み方も違うのですぐにわかるそうで、ものすごく強かった、射撃の腕もぜんぜん違う、というのです。これはもちろん、あくまで私が取材した農民兵士たちの言葉で、一般に公開されている戦史には出てきません。

烈士陵園の中の資料には当然何も書いてないと思うのですが、すぐ近くに「太原解放記念館」というのがあって、そこの展示物には何か書かれているのではないかと思い、そこに行ってみたかったのです。本屋の店頭に並んでいる、“戦記シリーズ”の中には、ここで俘虜となった日本兵の写真が載っていました。

と、もったいぶった前書きが長々と続きまして、今さら何ですが、実は行けなかったのです。村に帰る前日に設定して、列車の切符も購入済みでした。その日は雨が降ると予報に出ていたのですが、大雨でもない限り、降ってくれた方がほこりがたたないのでありがたい。くらいに考えてホテルを出たのですが、大通りに出ると、もう“濁流渦巻く”状態で、バス停まで行くだけでジャブジャブ川を渡らなければならず、ほんとうにどおってことない小雨でしたが、前日の夜から降っているので、すでに排水許容量を超えていて、至るところで冠水していたのです。

意を決して川を渡り、乗り換えの太原駅まで行ったのですが、ここがまたすさまじく、その上、濁流は白い泡にまみれて洗濯汚水のようで、あの泡の実体は何だろう?と考えると、さすがに二の足が出ず、翌日の切符だけ受け取りに行って(ネットで購入したチケットを駅で受け取る)、また同じバスでホテルに戻りました。

つまり、2つの主目的は2つとも果たせず、「久々の太原でしたが。。。。」というタイトルが付いているのです。いずれ記念館には行って、また報告させていただきます。

ところで、下の六文銭さんのコメントを受けてですが、まったく、ほんと〜〜に、開いた口がふさがらない彼らの無責任さ、もしかしたら“恥”という言葉を知らないのかと思うほど、澄田某と閻錫山の汚い取引。残留兵士たちも、否応なく侵略者に列するとはいえ、ほとんど何も知らされないままに敵と闘って、からくも生き残ったというのに、自己保身のために売り飛ばされ、あげくに国家補償からもはずされ、どんなにか無念の思いを抱いて、今はもうほとんどの人が鬼籍に入ってしまわれたんでしょうね。

閻錫山にしても、形勢が不利だと判断するや、あとのことは頼んだと、身内の青年たちや長く闘いを共にした同志たちに、青酸カリを渡して、自分だけさっさと逃げ出す。500人分の青酸カリを用意していたようで、あきれたことに台湾に行ってから、「最後の500人」みたいな本を出しているんですよね。実際に服毒したのは50人くらいだったようですが、度重なる降伏勧告に最後まで肯うことなく、閻なきあとの政府中枢の人たちは、壮絶な最後を迎えたようです。

澄田某も、帰国しても罪に問われることなく、家庭を持ち、立派に子供を育て上げ、そりゃ子供に責任はありませんが、なにしろ日銀総裁にまで出世したんだから、よっぽど親の教育が良かったんでしょうね。



1枚目は牛駝寨要塞。2枚目は、閻錫山がアメリカのジャーナリストに青酸カリのカプセルを見せているところ、のようです。我々はこれだけ覚悟を決めているんだ、というアピール。蛇足ですが、まったく同時期に撮られた写真だというのに、この解像度の違い!