遥かなるアンコール・ワット




街中の中央市場にも行ってみました。薄暗い屋内は迷路のようで、迷い込んだらなかなか外には出られません。どこも活気に満ちていて、モノは山積みになっていましたが、気になったのは野菜の種類が少ないことでした。畑作農業がまだ“発展途上”といった感じなのです。穀物は豊富にありました。海産物も多かったのですが、どうやらベトナム産が多いようです。2階には衣料品の店がびっしりと並んでいましたが、これらが国産なのか、ベトナム産なのかはわかりませんでした。とにかく、まったく言葉ができないし、もちろん英語は通じません。


翌日、国立博物館に行きました。ここの音声ガイドもよくできていて、すべてを聞きながら見て廻ろうと思ったら、半日では足りません。ところが、展示されているモノはというと、手や足が欠けていたり首がなかったりと、“完品”などほとんどなく、展示そのものもとても乱雑で、“国立博物館”というには寂しい限りでした。“クメールの至宝”に出会うには、旧宗主国ルーブル美術館、あるいは大英博物館まで足を延ばさなければならないでしょう。


私は4日目に、プノンペンから車で4時間ほど南西部へ下がったベトナム国境の村まで行く機会がありました。メコンデルタに位置する一帯は、延々と続く穀倉地帯で、工場の煙突などは、ただの一度も目にすることはありませんでした。このあたりのコメは、品評会で1等賞を取ったこともあるほどおいしいコメだったそうですが、クメール・ルージュ支配下に入って以来、稲の品種も一定に制限され、すべて上からの命令による集団農業で、伝統的なコメ作りはできなくなったそうです。
ベトナムとの国境は川幅100mにも満たない小流でしたが、そこで見たものは、カンボジアからベトナムに“密輸出”されるコメでした。恐らくは、安く買いたたかれて。ベトナムでコメが不足しているとは思えないのですが、もしかしたらそれはそのまま中国まで行くのかもしれません。カンボジアで唯一の産業といっていいコメ作りが、はたして農民たちの暮らしを、ほんとうに豊かにしているのかどうかはわかりません。


プノンペンには6泊したのですが、いつもと比べるとあまり外に出ていません。これらはあくまで私個人の見方であって、実態とは違っているかも知れませんが、私が1週間カンボジアを見て来て感じたことは、この国はまだ、かつての略奪、収奪の後遺症から抜けだしてはいない、あるいは、その途上で必死に努力し、もがいているのではないか、というものです。

極端な原始共産制社会をめざした(らしい)クメール・ルージュは、貨幣を廃止し、学校や病院や工場を閉鎖し、宗教を否定し、あらゆる近代化を拒否しました。プノンペンの住民をすべて農村部に移動させ、サハコーと呼ばれる集団農場(強制収容所)で農業に従事させ、しかも機械化を否定したため、すべて手作業だったようです。メガネをかけた者、文字を読もうとした者は、“知識人”としてキリングフィールドに送られ、政権にとって最低限必要だった技術者を除いて、技術を有する者もすべてキリングフィールドに送られました。75年4月にクメール・ルージュプノンペンを制圧してから、79年1月、ベトナム軍に解放されるまでに、およそありとあらゆるものが、否定され破壊され収奪されたのです。20世紀という時代になぜそのような世界が成立しえたのか、それはわかりません。


私がカンボジアに行ったのには、やはりアンコール・ワットが見たいという大きな目的がありました。しかし、S21を見学し、Bさんにお会いし、プノンペンの街をうろついている間に、その思いは徐々に薄くなっていったのです。アンコール・ワットは内戦の間に破壊され、特にクメール・ルージュが首都を追われてからは、ここを拠点として武力闘争を継続したために、ますます破壊が進み、周辺には大量の地雷が埋設されたといわれています。それに対して戦後、世界から修復、地雷除去のための人的物的支援が届けられ、日本もまた少なくない援助をしてはいます。しかしそれらはあくまで“支援”です。


カンボジアの歴史を顧みるならば、19世紀に遡るフランスの占領、ベトナムに敗北して後、カンボジアをそれに代わる反共戦略の砦としたアメリカによる国土と資源の破壊。中ソ対立、中越対立の代理戦場ともなり、長い間他国の利害に翻弄され続けてきたクメールの民。アンコール・ワットの破壊は、クメール・ルージュの蛮行であるといういい方は明らかな責任放棄です。2001年のタリバンによるバーミアンの石仏破壊の後に、イランの映画監督マフマルバフが発表した、『バーミアンの石仏は破壊されたのではなく恥辱のあまりに自ら崩れ落ちたのだ』という衝撃的なタイトルを思い浮かべつつ、結局私は、アンコール・ワットには行かなかったのです。