「S21」


プノンペン市の南部に位置するこの建物は、かつて高等学校の校舎でした。カンボジアの学生(生徒)たちは、フランス統治の名残とはいえ、白いシャツに紺のズボン、女性は紺の巻きスカートと、とても清楚でかわいい制服を身に着けて登校します。ここもかつてはそういった少年少女たちでまばゆく光り輝いていたことでしょう。



1975年4月、当時のロン・ノル政権が崩壊して、ポル・ポト率いるクメール・ルージュプノンペンを制圧、市内の人間をすべて農村部に強制退去させた後に、ここは「S21」と呼ばれる“政治犯強制収容所”となりました。そもそもその存在が極秘にされていたため、正式な名称はなく、「S21」という記号で呼ばれていました。後に地名をとって、「トゥール・スレン政治犯収容所」と呼ばれるようになり、現在は「トゥール・スレン虐殺博物館」として一般公開されています。2003年にはユネスコの世界記憶遺産に登録されたようです。

私がプノンペンに到着したのは、1月21日でしたが、翌日、ホテルから歩いて行ける距離にあったここに行ってきました。5分歩くだけで汗がしたたり落ちる灼熱の午後、当然のことながら心弾む訪問先ではなく、のろのろと時間をかけて、気分的にはようやく“たどり着き”ました。

7ドルの入場料を払うと、音声ガイドの機器が渡されて、それに従って館内を見て回りました。この音声ガイドはとてもよくできていて、15カ国語で作成されており、32カ所のポイントの説明の後に、それぞれまた指定されたボタンを押すと、より詳しい状況説明とか生存者の証言などを聞くことができます。


一番最初のA棟に入ってまず衝撃を受けるのですが、各部屋(小さめの教室)には鉄製のベッドが一台と、壁には無残な虐殺死体の写真が一枚ずつ掲げられています。これらは、1979年1月にベトナム軍がプノンペンを制圧した時に、その異臭に気づいてここを発見し、その時の状況をそのまま写真にとらえたものが掲示されているのです。クメール・ルージュは最後の収容者たちを虐殺して後に逃亡したのですが、その直後の写真ということになります。(音声ガイドで、「残酷な写真があるので、決して無理をしないでパスするように」と、たびたびアナウンスがあります。それほど凄惨な写真です。)

ベッドの上には鉄製の箱がひとつずつ置かれていて、用便をたすためのものだろうとは思ったのですが、後で知ったところによると、これはもともと弾薬箱で、蓋を開けるのにやや特殊な技術がいるのだそうです。それで、収容者がそれを自ら開けて用を足せば、彼は軍の関係者として即刻処刑の対象となるという、巧妙な仕掛けが隠されていたのです。


最後に独居房に収容されていたのは14人で、名前もわからない彼らの遺体は、中庭に葬られ、今も14個の白い墓石となって、訪れる人たちに、墓標もなく残された言葉もなく、密やかにそして痛切に、クメールの悲劇の歴史を訴え続けているのです。


この収容所では、旧政権関係者、いわゆる知識人、技術者、医者、学生、宗教者などなど、つまり都市部の“一般市民”が連行され、凄惨な拷問の後に、“アメリカCIAの手先”“ベトナムのスパイ”という供述書に署名させられ、つかのま拷問の責め苦から解放された後に、市の南西15キロほどにあったチュンエク村の“キリングフィールド”に送られて殺害されたのです(キリングフィールドは国内各地に何カ所かあった)。受け取ったパンフによると、ここには12,000〜20,000人が収容され、生存が確認できているのは、わずか12名だそうです。


壁には1000枚ほどの犠牲者の写真が掲げられています。そして、1枚1枚の写真の絶望的なまなざしに曝されて、私はすっかり落ち込んでしまったのです。正確な数字は今もって特定できないようですが、ポル・ポト政権下では、およそ200万人、国民の1/4が殺害、もしくは餓死したといわれています。

70年代の後半といえば、そんなに遠い昔のことではありません。虐殺が世界に知られるようになる前には、ポル・ポトを支持する発言をしていた日本(および世界)の知識人もいたのです。アメリカはベトナムから米軍を撤退させると同時に、ロン・ノル傀儡政権を擁して、同じ反共理論で、カンボジア国内に大混乱を引き起こし、ポル・ポト政権を誕生させたともいえるのです。これらの歴史にいかに私(たち)が無知、無関心であったか、2000個の眼差しに問い返されているようで、私はその後数日間、プノンペンではとても“観光”をする気にはなれなかったのです。