石門焉

もう10年も前から、「行きたい、行かなければ」と思い続けて来た地に、今日行ってきました。なぜこれまで行かなかったかというと、第一にものすごく行きづらいところで、一日車をチャーターしなければ無理という地理的条件があったのですが、もうひとつは、この石門焉(シーメンイエ)という村は、私が住んでいる臨県とも、南接する離石とも違い、臨県の東側にある方山県という地域に属していたからです。私がこれまで老人たちから戦争の記憶を聞き取り続けて来た地域は、臨県であり、離石(招賢鎮は臨県の最南部のため離石とは接触が多い)であって、かつその範囲内に限定しようという思いがあったからです。

当時この地域の日本軍は、離石と三交、大武、石門焉の4か所に要塞を建造して(小さなものは各地にたくさん)大量の日本兵を駐屯させていました。特に石門焉はいわば特高警察的な要素が強かったようで、いろいろな地域から民兵や遊撃隊員(と覚しき人たち)を連行してきて、といっても、もちろん普通の農民たちが自分たちの村を守るために、民兵になり、遊撃隊に参加したわけですが、その彼らを老若男女問わず虐待虐殺したところなのです。これは、私が何かの資料を読んでいっているわけではなく、300人という老人たちから話を聞いてゆく中で徐々にわかってきたことです。前々から一度行かなければならないと思いつつも、気が重く、足が向かない場所でもありました。

今回ようやく行くことができたのは、シーピンが黒タクを始めたからであり、私もいつまでここにいられるかわからないので、いよいよ最後の決断をしたわけです。単に車をチャーターして行くだけなら、少しお金を払えば誰でも行ってくれますが、誰か事情がわかる当地の人がずっと一緒でなければ、事はまったく進まないのです。

石門焉は新しくできた呂梁空港の近くにありますが、幹線道路をそれてから、どんどんどんどん山の中に入って行って、ほんとうに辺鄙な場所にありました。途中で道を聞きたくても人がおらず、何度もゆきあたってしまって、いったい今でも石門焉村というのはあるのだろうか?と不安を覚えたくらいです。


車は徐々に高度を上げ、20分くらいで最初の人家に出会いましたが、すでに無住でした。しかし傍らにあった土地神様の廟に供え物がしてあったし、畑にはトウモロコシが丈高く茂っていて、見晴らしは悪いのですが、どうやら村に人は暮らしているようです。やがてぽつぽつと人家が現れ始め、ようやくにして人影を見つけて車を停めました。シーピンに、日本軍の要塞はどこにあったのか聞いてもらいましたが、ちょうどそちらの方に行く用があるので案内してくれるというのです。

74歳だという、とてもかわいいおばあちゃんと3人で車に乗って目的地に向かいました。あの山の上の一番高いところにあったというのです。たしかに、すぐ目の前に台地上になった山が見えました。山といっても、頂上まで耕されていて、トウモロコシが植わっていました。今年はエルニーニョの影響でものすごく雨が多く、段々畑は濃い緑で覆い尽くされていますが、トウモロコシの出来はどこもいいようです。(トウモロコシは乾燥させて粉に曳いて麺の材料になり、家畜のエサにもなるし、あまり手間がかからない換金作物なので、どこへ行っても広い土地には大量に植え付けられています。)

麓に車を停めて頂上まで10分くらい歩きました。この道を多くの捕虜、つまり農民たちが連行されていったんだなぁと思いながら、私は2人からやや遅れて一歩一歩踏みしめながら歩きました。舌の先に穴をあけて針金を通して連行していった、という話も聞いたことがあります。今は夏草が茂り、すでに秋を感じさせるここちよい風すら私の頬を撫でてゆき、10年待って、ようやくここに来られたという思いで胸がいっぱいになりました。



この石門焉がなぜ選ばれたのかというのは、何かを調べないとわからないのですが、ここは周辺の山々より一段と高くなっていて、確かに守るには戦略的に優れているのでしょう。例えば賀家湾にしても、尾根伝いにいくつかの“隣村”に行けるのですが、ここは見渡したところ、“独立峰”的な地形で、いったん山を下りなければ隣村には行けないようです。そして辺鄙とはいっても、一本道をずっと道なりに下りてゆけば(とても徒歩で行かれる距離ではありませんが)、そこは臨県(臨県の行政所在地も臨県)と離石を結ぶ主要幹線道路になっているのです。そして当時離石は日本軍の占領下にあり、臨県は八路軍の影響下にあったのです。また、もう一か所要塞があった大武というところは、比較的大きな町で、飛行場ができたのもこの町の地籍です。同じ方山県に属し、10キロ程度の距離だと思います。


このトウモロコシが植わっているところが、かつて日本軍の要塞があった場所です。すべて耕作地として耕してしまったので、痕跡はなにひとつ残っていないそうです。道端にレンガのカケラなど3つ4つ転がっていましたが、おそらくそれらも当時とは関係のないものでしょう、すでに70年という年月が経っているのです。
まったくの偶然だったのですが、この要塞の跡地は、村で最初に出会ったこのおばあちゃんの家のものだったのです。当然戦後の土地改革以降のことですから、当時はどういう人が所有していたのかはわかりません。おばあちゃんの今も健在な81歳になる老公(夫)は、以前村の書記をしていた人だそうで、戦後に村の有力者に譲渡されたということでしょう。


今回は時間もなく、なによりまったく見晴らしがきかないので、秋の収穫が終わってから出直すことにしました。もちろん、なんとかしてこの村に“入り込みたい”と考えていますが、それが可能かどうかはなんともいえません。ただ、なんとなく希望はあります。
おばあちゃんは最後にこんな話をしてくれたのです。当時老公は八歳くらいで、日本兵に米と牛肉を食べさせてもらったことがあるが、それはとてもうまかった、といっていたという話です。この、牛肉、あるいは牛肉の缶詰をもらって食べたことがあるという話は数人から聞いていて、みな「ほんと〜にうまかった」となつかしむような口ぶりでいうのです。当時のこの地の農民たちはそもそも「米」というものを食べたことがないし、まして大切な農耕牛をさばいて口にするということはなかったでしょう。おそらくは、“牛肉の大和煮”というものではないかと想像しますが、私は何とかこれを入手して、秋にはそれを持って、石門焉村に向かおうと考えているのです。