「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」

例年のウチの学校の東北ツアーのため、8月22日に村を出て、一昨日8日に戻りました。17日間村を空けたわけですが、ツアーそのものは11泊12日です。今年は予算の問題もあって、昨年まで行っていた国境の町丹東をやめて、ハルビン長春→撫順→瀋陽という、一直線コースで移動は楽でした。その上に「高鉄」という新幹線が開通しているので、瀋陽ハルビン間がなんと、2時間というスピードです(しかし高い。2等で5000円くらいで、一般庶民は乗れない)。最初に行った頃は、どこまで走っても車窓に延々と拡がるトウモロコシ畑を眺めながら、「あぁこれが赤い夕陽の満州か…」などと、満鉄職員だった父を持つ私には、感無量の思いもあったのですが、もはや昔日の感慨などあっさり吹き飛ばす猛スピードです。


毎年ほぼ同じコースを巡って12年目ですから、改めてご紹介するようなところもないのですが、ただ、リニューアルなった「侵華日軍第七三一部隊罪障陳列館」には圧倒されました。昨年も訪れているのですが、その頃はまだ工事が始まっている様子はなかったのです。ハルビンは冬季は−40℃くらいになるので、野外工事はできないと聞いているし、3月から始めたとしてもわずか半年です。もちろん、昨年の冬前にいくらか進行してはいたでしょうが、おそらく日本ならば、最低でも3年くらいはかかる工事ではないでしょうか?巨大な陳列館だけでなく、広大な敷地の地下に埋設されていた、施設の基礎の部分などが掘り起こされていたのです。いったいどれだけの労働力をこの短期間に投入したのだろうと、想像するだけで気が遠くなりそうな、それほど壮大な大工事ですが、8月15日に開館しろという至上命令があったようです。

私が最初にここを訪れたのは、まだ中国で暮らす前で、20年ほども昔のことです。当時は部隊の研究棟だった平屋の細長い校舎のような建物の半分に、わずかの資料が展示してあっただけで、あとの半分は中学校の校舎として使われていました。現資料館のあるあたりで、生徒たちがバスケットボールに興じていた姿に唖然としたことを今でもよく覚えています。中国人の持つフレキシビリィティを如何なく発揮する原点のような場所でした。

その後何度か訪れましたが、中学校は近くに移転し、展示資料も徐々に増えました。おどろおどろしい蝋人形や、当時の再現映像などもあって、行くたびに政治的プロパガンダ臭の強いものに変わってゆきました。私が生徒たちを連れてゆくのに気乗りがしなくなった時期です。




ところが数年前から、蝋人形などが徐々に撤去され、客観的なデータの展示が増えて行ったのです。これは昨年知ったことですが、しばらく前に館長が変わったそうで、この新しい館長は、政府の人間というより、元々が研究者で、731部隊の歴史資料を、日本やアメリカ、ヨーロッパにまで足を延ばし、何年も前から蒐集していた人だそうです。彼個人(および共同研究者)の意向が強く反映されている展示に変わっていったのだと思います。その金館長は、昨年私たちが訪れたときに、全員を館長室に呼んでくれて、1時間ほどの懇談会を持つことができました(私自身は用事があって不参加)。きっと日本の若い人たちの意見が聞きたかったのだと思いますが、まったく突然のアポなしで、他の資料館ではおよそ考えられない事態です。帰国してから何人かの生徒が、日本語がわかる金館長にメールを送っていたようです。



そして今年、私たちは8月29日に訪れましたが、開館したばかりの土曜日ということもあって、入館制限がされるほどの人出でした。かつての展示室だった旧研究棟はそのままの状態で保存され、資料はすべて新資料館の方に展示されていました。以前よりも詳細なデータが増え、部隊員のその後の地位などを細かく列記したパネルなどもありました。



731部隊は、けっきょく人体実験の“研究データ”を渡すというGHQとの取引ですべての罪を免れて、処罰された人は一人もいないという、恐ろしくも信じがたい戦後を迎えたわけですが、その点に対する追及は遠慮がちで、ワイングラスを並べたテーブルの前で、にこやかに微笑む石井四郎夫人とアメリカの調査官が一緒に写っている写真があるくらいでした。世界遺産登録をめざす中国としては、やはりアメリカに遠慮があるのでしょうか?

731部隊が行った人体実験のデータは、アメリカも喉から手が出るほど欲しかったわけで、そのデータは戦後のアメリカの医薬学界にも多大な利益として還元されたことでしょう。わずか2日間で、施設と資料と生存していた“マルタ”を爆破爆殺して、特別列車でいちはやく逃亡し、釜山から北陸に上陸して、金沢だかの寺で、死ぬまで秘密を洩らさないようにと契って、ひっそり解散式を行ったという部隊員が、その後も日本の医薬学界に君臨し続けたという恥ずべき事実と同罪だと考えます。

ただアメリカが日本と違うところは、それらの資料を公開していることです。今回最も印象に残ったのはこの資料で、昨年もほんの数点展示されていましたが、今回はほぼ1室を埋め尽くす量(これでも1部分)で、これらは金館長自ら渡米して蒐集したものだそうです。解剖図を含めた人体実験のデータですが、日本語でもドイツ語でもなく、すべて英語で書かれています。戦後アメリカの調査官が来日して、免責された731部隊員から聞き取ったものです。(圧倒されたあまり、写真を撮り損ねました)


加害者の謝罪のコーナーというのは比較的広くとってあって、以前はパネル状のものばかりでしたが、今回は映像がかなり含まれていました。年齢を見ても、わりあい最近になって取材したものもありました。当時の少年兵、石井四郎の運転手、“マルタ”の移送を受け持った憲兵などです。


「結束語」ーむすびの言葉ですが、ここからおなじみの「国辱を忘れるな」が消えていました。去年はありました。


冬季以外に使用された「凍傷実験室」。中に入れます。真夏なのに、身も心も凍り付くようでした。


「小動物地下飼育室」


ネズミを飼育していた施設。ここで培養されたペスト菌が、“最も安価な殺人兵器”として、実際に中国各地で使用されました。



731部隊全体のエネルギーをまかなっていたボイラー室の残骸です。これは実物、あるいは写真でご覧になった方も多いと思いますが、去年まではこの壁面の前は、ほんのちょっと掘り出されていただけで、ほとんど平地に近かったのですが、今年はずっと地下深くまで発掘が進んでいました。




裏側から見たところ。工事中でしたが、誰もいなくて、立ち入り禁止とも書いてなかったので、ラッキーとばかり裏に廻って写真を撮りました。去年までは裏側に入ることはできない構造になっていて、建物があったのですが、それが撤去されて、地下が掘り起こされていました。そのまた後方にあるアパートのような建物も、目立たないようにグレーに塗り替えられたばかりでした。来年来ても、おそらく周囲に柵ができて、ここは立ち入り禁止になっていると思います。


リニューアルされた陳列館から、このボイラー室跡までは歩いて10分もかからないのですが、なぜかここまでやってくる中国人はほんとうに少なく、私たちが周りをうろうろしていた間はほとんど誰もやって来ませんでした。

ちょっと見ただけでは、まるで古代の神殿遺跡かと見紛うばかりのこの廃墟は、わずか80年ほど前に建てられたものであり、1945年、ソ連の参戦を知っていちはやく、8月15日以前に爆破されたものです。今回ツアーに参加した生徒の中に、“残留孤児”4世の少年がひとりいましたが、彼のひいおばあちゃんたちが、地獄の逃避行を開始するその前に、731部隊の隊員たちはすでに特別列車で中国を脱出していたのです。

私はこの廃墟の前に立って、思い出したエピソードがふたつありました。ひとつは、731からは話がずれてしまうのですが、戦後処刑されたあるBC級戦犯のことです。何で見たのか記憶にありませんが、とにかくBC級戦犯なるものがあったということを知ったときですから、ずいぶん昔のことです。捕虜虐待の罪で中国で処刑されたその若者の辞世の歌が、

「音もなく 我より去りしものなれど 書きてしのびぬ 明日という字を」

というものだったと記憶しています。彼の墓(碑?)が洛南(陝西省)の妙法寺にあるという、それだけの情報ですが、なぜかずっとこの歌が心の隅に潜んでいて、今回久しぶりに思い出しました。大国の戦後世界支配の構想からすれば、こんな若者の命のひとつやふたつ、浜辺の砂の一握りより軽かったのでしょう。彼の犯した捕虜虐待がどのようなものだったかわかりませんが、3000人以上といわれる人間の命を、悪魔の心すら凍り付かせる残虐非道な方法で奪い去った石井部隊では、誰一人として罪に問われなかったという、このやりきれない矛盾。(この歌に関しては、私の記憶ミスがあるかもしれません。ご存知の方はご指摘ください)

いまひとつは、辺見庸の作品の中にあったものです。731部隊に所属する若い女性看護師が、解剖台に乗るのを拒んで震えている“マルタ”に向かって、「大丈夫ですよ。怖くありませんよ……」とうまくなだめて台の上に乗せてから、医師たちの方へくるりと振り向いて、ぺろっと舌を出したというものです。これは当然その場にいた誰かが証言しているのでしょうが、彼女は何十年か後に秘密裏に行われた731部隊同窓会に出席していたそうです。いちはやくハルビンを脱出した彼女は、おそらくは、やがて人の妻となり、子を産み、せいいっぱいの愛情をそそぎ育て、人並みの苦労もして、普通に年老いていったのでしょう。ぺろっと出した舌のことなど、記憶の片隅にすら存在しないに違いありません。

人体実験のデータと細菌戦の効用を説いて、巧みな交渉を成功させた石井四郎も、日本最初の血液銀行ミドリ十字を設立した(薬害エイズ事件に繋がる)内藤良一も、帰国後医院を開業した多くの人も、そして大学の教壇に立った(!?)人たちもみな、“罪の意識”はあったのでしょう、かん口令を敷いたのですから。しかしその罪の意識とは、おそらくは、ぺろっと出した舌の先程度のささやかなものではなかったでしょうか。残虐な人体実験、生体解剖も、科学(医学)の進歩のための“必要悪”であったという程度の認識しかなかったのではないかと思います。

実をいうと、最近体調が悪いというのも、よく眠れないからで、ぺろっと出した舌の先から、どす黒く腐敗した血液と、悪臭を放つどろどろの膿が、ぼたぼたと滴り落ちるイメージが、私の睡眠を妨げているからです。これまでは“国家プロパガンダ”臭が強かったせいで、逆に“平然”としていられたのですが、それが取り払われてくると、さまざまな問題が、私個人に直接的に突きつけられるようになったからだと思います。

私の父は“幸いなことに”建築畑の人間でしたから、ハルビンに行くことはなかったようですが、すでに30年近くも前に、一言も語ることなく死んでいった彼が、なぜ語らなかったのか、語らせられなかったのか、戦後70年を経て、取り返しのつかない疑問として、今も私の胸に居座っています。

明るく楽しいブログ作りを目指しているのに、珍しく深刻なエントリーとなってしまいました。しかし、私はここから立ち直るために、実は新たな計画を考えています。それは、いずれまた。長々とお付き合いありがとうございました。