干ばつと豪雨と堵車とノラ

村に戻って10日ほどになります。日本も猛暑続きで、岐阜県で、39.9℃を記録したという記事を見ました。しかし自慢するわけじゃないですが、こっちの暑さはそんなもんじゃないのです。私の持っている温度計は、45℃まで計れますが、外に出すとアッという間に振り切ります。例年この時期はそんなものです。マジに、外にしばらく立っているだけで火傷するので、日中は部屋から出ることはありません。部屋の中にさえいれば、特に私の部屋は土ヤオトンなので、23℃くらいで一定していて快適です。それでも屋根が露出している建てヤオトンの人は、日が暮れてからでもかなり暑いのではないかと思います。

私は1か月半ほど村を空けていたわけですが、聞いてみるとその間まったくといっていいほど雨が降らなかったようです。主食の粟や、発芽が遅いニンジンは、そもそも発芽せず、出ていてもほんとうに雑草みたいなもので、今年は収穫は期待できないそうです。換金作物のトウモロコシや大豆もぜんぜん成長しておらず、これではまともに実を付けるとも思えません。自家消費用のカボチャやウリも花さえ付けていないものが多く、トマトやキュウリもそもそも背丈が例年の半分くらい。夏場の栄養源のインゲンもほぼゼロ。私の畑の水菜など、いうまでもなく、その痕跡すら残すことなく消失していました。今年は干ばつです。ここまで酷いのは、私が賀家湾に来て初めて、8年ほど前、磧口にいた頃に次いでの大干ばつです。

その爆暑の最中、村に戻って3日目に葬儀がありました。例によって撮影を頼まれたのですが、彼らは私の予定など知る由もなく、つまりプロの撮影師を頼むお金がなかったのです。しかも、そのじいちゃんには何度も話を聞かせてもらっているし、息子にも世話になっているのできっぱり断ることもできず、とにかく一部分だけ、という条件で引き受けました。

当地の葬儀のメインというのは、「出祭」といって、関係者全員が、遺影やお供えや飾り物を持って、村中をひと巡りするものですが、その途中2、3カ所で立ち止まって、楽隊がどんちゃかぶんちゃか賑やかに奏でるのです。10分から20分くらいでしょうか。楽隊も大変な激労働で、今回は木陰や建物の陰を探してそこでやったのですが、それを撮る私はといえば、45℃の炎天下です。びしょびしょに濡らしたタオルを頭に乗せ、サンバイザーを被り、長袖のシャツを着て、これは熱中症で死ぬな、と半ば覚悟しながらビデオを廻しました。しかしこういうときに私に気を使ってくれる村人というのはいません。他人のことにはおかまいなしの風土なのです。

その後に、「午奠」という、日本でいういわゆる葬儀の儀式が3時間ほどあり、その後に酒を飲んだ2人が顔面血だらけのけんかをおっぱじめ、ひとりは瀕死の重傷でオート三輪に乗せられて山を下り、もうひとりも、私は死んでるんじゃないかと思ったくらい微動だにせず外に放置されたままで、さすがに私もヘトヘトに疲れ果てて、翌朝4時の出棺は遠慮させてもらいたいと、部屋に戻りました。

幸い2人とも回復に向かっているそうですが、なんともはや、生きとし生けるものすべてが過酷ではあります。とにかく派手に賑やかに送ってもらうのが、故人と遺族にとって良きことなので、村の最高齢者だったじいちゃんも今頃は黄色い大地の下で満足しているのかも。ちなみに、当地ではまだ聞いたことがないですが、とある地方では、葬儀の余興にストリップショーをやるのが流行っているのだそうです。風紀上好ましくないと当局が規制しようとするのですが、少しでもたくさんの人に来てもらうことが、故人への孝行だから止めるのは難しいと、その土地の人はいっているとか。私には理解できますね。

で、その大干ばつの最中に突然、豪雨がやって来たのです。報道によると、山西省の永和県で、数十年に1度の雨が降って、大きな被害が出ているとか。永和県というのは山西省の南部の方で、ここは中部ですからかなり離れてはいます。もちろんこちらも降りました。ただ、明け方短時間に降ったので、爆睡していた私はほとんど気づかなかったのですが、朝5時頃に、村内放送で大雨に注意するようにといっているのをウロ覚えているのですが、あの雨の中を放送機器があるところまでどうやって行ったのだろうかと、それが不思議です。バケツにたまった量から推し量ると、100ミリくらい降ったようです。それだけの雨は、私にとってももちろん初めてのことです。


で、大雨の後は、道路が崩れて離石行きのバスは運行停止になることが多いのですが、今回は無事に走っていると聞いたので、今朝9時頃に招賢まで出かけました。ウチの学校のツアーまであと3週間ほどなので、あれこれネットを繋いで準備しなければならないことがたくさんあるからです。ところが、それくらいの時間帯だとだいたい30分に1本くらい頻発しているはずなのですが、今日はなかなかバスが来ません。どころか、通っている車の姿がほとんどありません。聞いてみると、招賢のちょっと先で「堵車」していて、いつ開通するかわからないというのです。堵車、つまり車がふさがってにっちもさっちもゆかない状況だというのです。(上の写真の赤い横断幕は、人民解放軍の入隊募集の宣伝。都会の青年は誰も行かないので、こういう田舎に募集広告がまわってきます。)

原因はわかっています。「拉煤車」つまり石炭運搬トラックです。招賢の街中は道が狭いので、少し離れた大長あたりに、いつも拉煤車が大挙してたむろしているのです。その大きさといったら、いまどき日本の街中では目にすることはないと思いますが、タイヤが24本ついています。そしてその傍若無人なことこの上なく、道の両側に駐車して、その間の行き違いもままならないスペースに前後もわきまえずじゃんじゃん突っ込んでくるのです。堵車はしょっちゅうあることで、そのたびに30分1時間1時間半と、時間を無駄にしなければなりません。これには私も何度も何度も何度も泣かされました。



そして待つこと3時間。ようやくあきらめた私は、炎天下にヨロヨロと賀家湾に戻りました。ふと気が付くと、谷に住み着いているノラ犬が私のあとを着いてきていました。かれこれ3か月近くも通っていないところでしたが、ノラはちゃんと私のことを覚えていたんですね。ほんとうに痩せて、みっともないような犬ではあるけれど、以前食べるものを何回かあげているので、何かもらえると思ったのでしょう。口にできるものといえばタバコくらいしかなかったので、ごめん!次に来た時にね、といって私はまたヨロヨロと山道を歩き始めました。ノラも寂しそうに帰ってゆきました。