寺坂底

久しぶりにいい天気になったので、サモ君の骨を買いに、招賢に行ってきました。ところで、私もいつも「招賢」(zhao xian)と書いていますが、実は正式な名称は「工農庄」(gong nong zhuang)です。ただ、招賢鎮の中心地であり、鎮政府もここにあるので、現地の人以外は、みな招賢と呼んでいるようです。バスの表示も招賢です。


で、この工農庄はかつては、「寺坂底」(si ban di)という名前だったのです。字の通り、坂の上に寺があって、そこを下りたところに開けた街という意味です。名前が変わったのは恐らく開放政策以降だと思うのですが、このあたりは昔から鉄が出て、鉄工業が盛んだったので、工農庄という味気ない名前に替えられました。当時の共産党政権なら、もっともありそうな発想です。現在も稼動している工場はもうないと思うのですが、小さな鉄工所とか鋳物屋とか、それらしき名残はあちこちに残っています。日中戦争終期には、八路軍の弾薬工場があったとも聞いています。


中央の白い建物が炭坑の施設。ここだけで、村の人口に匹敵するほどの炭鉱労働者が暮らしていて、街の商店は潤っていると思います。四川省からやってくる炭鉱労働者は、家族ぐるみでやって来る人たちも多いのです。ちょうど村の真反対の側にもう1ヵ所あり、その坑道が賀家湾の下を通っていて、私の部屋の土間にも、その影響による亀裂が入っています。


いつも行く商店が並んでいるあたりは、いわば旧市街と新市街の境界の道路沿いにあたり、ここで市も開かれ、バスもここから出ます。

旧市街というのは、ひとつの山になっていて、その山のてっぺんに寺があったようです。村の人の話によると、すでに唐代から記録に残っているそうで、その寺を中心とした、いわば門前町だったようですが、唐代がどこまでほんとうかはわかりません。

写真は旧市街から新市街を見たところ。正面のエンジ色の建物は、小学校の校舎。工農庄の登記上の人口は3000人ほどです。


以前はよく行ったのですが、ここ2年ほど足が遠のいていました。久しぶりに訪れた街並みは、やはり凋落が激しく、無住のヤオトンが増えていました。ただ、ここは賀家湾のような、普通の村落ではないので、建物の形が“民家風”ではなく“商家風”というか、ちょっと変わった建物が多いのです。



この2つの部屋は隣同士ですが、おそらく、内部は半地下になっていると思います。どこに入り口があるのかわかりませんでした。


ここはほとんどすべてが、「建ヤオトン」といって、崖面を掘り抜いたものではなく、平面に石を積んで建てたもので、屋根も壁も露出しています。当然、土を堀り抜いた「土ヤオトン」の方が外気の影響を受けづらく、冬は暖かく、夏は涼しいです。


これも立方体で、不思議なヤオトンです。内部がどうなっているのか、いずれ探検してみましょう。