なつめふぉとあるばむ 2


10月も終わりの頃になると、畑仕事も終わり、村人もこぞって冬支度に入ります。棗ももう干しあがっている頃ですが、樹上に取り残された実がいくつも残っていて、それを揺すって落として食べるのも散歩の楽しみのひとつです。ユサユサ揺すって、パラパラ落ちたのを、なつめと競って拾うのです。なつめはなぜかおいしい実がすぐにわかるようで、いつもいいのは取られてしまいます。この顔も「フン、わたしの勝ちね!」と勝ち誇っているところです。


これはなかなかに“凛々しい”立ち姿ですね。これを見ると、チベタン・スパニエル(どうせ後から○○協会だかが付けた名前だろうけど)という由緒ある犬種の血が流れている(のではないか?)というのもうなづけます。


そろそろ4歳になる頃、イージャオの庭で。なつめはいつもこのスタイルでうたた寝をしています。今もまったく変わりませんが、やっぱりずっと私に守られて、敵がいなかったんでしょうかね。


これも私のお気に入り写真。賀家湾村に1つだけ残された獅子です。もともとビンボー村だったので、立派な建造物などなかったのですが、それでも文革の頃には紅衛兵がやって来て、獅子や屋根の御守りや家具の飾りなど、破壊していったそうです。この家は今は無住ですが、その当時はどうやら村長さんの家だったようで、それで被害を免れ得たのかもしれません。ただ、獅子は必ず1対なので、片割れがどうなったのかは、村人に聞いても誰も知りませんでした。



とにかく走るのが好きです。飛ぶように、風のように、放たれたつぶてのように走ります。畑には作物の切り株が残っていることが多く、粟やとうもろこしなど、かなり鋭い切り口が放置されていて、よく怪我をしないものだと感心しますが、そういうことは一度もありませんでした。

目の感染症で数日間抗生物質を使ったことと、皮膚病の軟膏を塗ってあげたくらいです。羊を飼ってる人がいるので、招賢にも“獣医”がいて、何度か通いましたが、飼い犬を連れてくるのは私くらいだと笑われました。今にして思えば、あの“危険がいっぱい”の高原の村で、事故も病気もなく、無事に日本までたどり着けたものだと思います。崖道が突然崩落するとか、殺鼠剤を誤って食べてしまうとか、あるいは犬同士のけんかとか、時には交通事故などで死んでしまう犬や猫はほんとうに多いのです。


なつめは何をしているかというと、私を待ってるのです。少しでも遠くまで行きたいので、必ず私の前数十メートルを歩きますが、分かれ道に来ると立ち止まって待つのです。ただし、いかにもあなたを待っていました、というような従順な仕草はしないで、待ってたわけじゃないもんね、といった感じで叢をゴソゴソやっていたり石ころをいじっていたりして、私の顔は絶対に見ません。それで、行く方向が決まると、キッと体勢を立て直して、またダーッと駆け出して行くのです。それでどんどん遠くまで行ってしまって、呼んでもなかなか戻りません。ただし、私がなつめを無視してくるりと背を向けて歩き出すと、しばらくして、またダーッと私の前に飛び出して来ます。



村にいた頃はドッグフードなど手に入らないし(いまは離石で買える)、たいした量を食べるわけではないので、基本的には私が食べるものを分けて与えていましたが、極力質素に、という与え方でした。なぜかというと、贅沢なものを食べさせると、ゲンワン家に預けるときに食べなくなって、そんなでは預かれないわ、ということになるからです。これはご飯とトウモロコシに煮干しの粉でもかけてあったのでしょうが、はっきりいって、このトウモロコシはまずくて私は食べません。味がぜんぜんないのです。さすがになつめもご不満だったようですが、拒否の仕方がなかなか奮っていて、人間の子供と少しも変わりません。「これおいしくないの、わたししってるもんね」「せっかくでわるいけど、どうしてもだめ」「(こうしてれば)きっとまたそーせーじいれてくれるかな」

かなり昔のことですが、この状態の後に、「食べたくなければ食べなくてよろしい!」「飢えて勝手に死になさい!」といって、碗をかたづけてさっさと寝てしまったことがあったのです。すると朝まで、ウ〜ウ〜ウ〜ウ〜、とそれまで聞いたことがない、実に奇妙な、恨みのこもった唸り声を、一晩中あげ続けたことがあったのです。そして朝起きたら、部屋の中でうんこをしていました。後にも先にもこの1回だけです。あのときは私もほんとうにびっくりしました。死ね、といった私の言葉がわかったのだろうか、と。以来、結局はなつめの要求に負けています。


私が帰国などで長く村をあけて戻ってからしばらくは、決して私のそばを離れません。私がゴソゴソ出かける素振りでもしようものなら、ササッと私より先に外に出ます。また置いてかれると思うのでしょう。帰国の時だけ使う大きめのスーツケースがあるのですが、それを取り出してあれこれ準備をはじめだすと、もうものすごく不安な表情で落ち着かなくなります。不思議ですね、どうしてわかるのでしょう?とにかく敏感で、知能がとても高い犬であることは間違いないようです。



なつめを日本に連れて帰ることは、この頃まで1度も考えたことはありませんでした。とにかく、信じがたい労力と、それ以上にお金がかかるからです。ある時期に突然決心をしたのですが、そうさせた理由は、尖閣列島問題とお隣との関係でした。(この点に関しては長くなるので省略します)

日本の動物検疫というのは、他国に比べてずっと厳格なようですが、どういう手続きが必要かというと;
まず、マイクロチップを装着した後に、中を1ヶ月間おいて2回、狂犬病の予防接種を受けさせます。その後に血清をとって、日本の指定検査機関に空輸します。その返事を待って後、半年間の繋留期間をおき、再度検査をして問題がなければ日本に連れて帰ることができるのです。

で、問題は、それらの処置を行える病院が北京、上海などの大都市にしかなく、その上に、中国のバスも列車も、犬を乗せることができないのです。つまり、すべて車をチャーターして2往復と最後の1回、5回移動しなければならないので、これにかかるお金が、それはもう、膨大なものになるのです。私にはとてもそんな余裕はないので、どうしたらいいか、ものすごく悩みましたが、“尖閣の嵐”が吹き荒れる中で、やはり何事か起これば、私は一生後悔するだろうと思い、お金には替えられないと決断しました。

写真は、1回目の接種のために、北京の動物病院に向かう車の中です。磧口の顔見知りの運転手に頼んで太原まで送ってもらい、その夜は、なつめをペットショップに預けて私はホテルに泊まり、翌朝6時に、太原の旅行社で用意してくれた車で北京に向かいました。なつめは、虫の知らせでもあるのでしょうか、とても不安げな表情をしていますね。幸い運転手の張さんがとてもいい人で、順調に目的の病院に到着することができました。


病院に着いてからは、てきぱきと事は進みました。中国政府の指定病院のようで、手馴れたスタッフがいて、2階には、税関の支所まで設置されていたのです。写真はマイクロチップを装着するときです。ものすごく太い針を肩口にグサッと打ち込まれたのですが、ぜんぜん痛がりもせず、おりこうさんでした。その後狂犬病の予防接種をして、他になにやらいろいろ検査をして、それでも1時間ほどで終わって、すぐに太原までトンボ帰りしました。


これは2回目の接種が終わって太原に戻る車中です。なつめにとっては、すべてが終わって、もう痛い目にも会わないですむと、ホッとしたのでしょう。お得意のリラックスポーズでうたた寝です。


先回と同じように、なつめは太原のペットショップのケージの中で、私はホテル泊まり。昼頃に迎えに行ったら、まるで“ムンク犬”になっていました。よっぽど辛かったんでしょうね。でもここのペットショップも、1泊20元で預かってくれて、他にもいろいろ親切にしてもらいました。感謝感謝です。


太原の街中で、磧口から迎えに来てくれる車を待っているところ。私もほんと〜にいろいろ大変でしたが、ここまで来てようやくホッとしました。あと半年間村にいて、年末に帰国するときには連れて帰れます。これ以降の手続きは、日本の検疫所とインターネットで連絡をとることになりますが、これもまたなかなか大変でした。自分でも、よくこれらの煩雑な手続きをクリアできたものだと思います。なつめも私も、お疲れさん。


それからの半年間は、これまで以上にいろいろ気を使いました。これだけの労力とお金をかけているのに、万が一何事か起こったら、ほんと、泣くに泣けないです。病気をしないように、事故に遭わないように。犬同士のケンカで大怪我することだってあるし、農薬や殺鼠剤が転がっていたということもなきにしもあらず。日本に行けば放し飼いにはできないので、慣れさせるために、なるべく紐で繋いで散歩をさせていました。

山の畑まで来れば、もうあまり時間もないし、思いっきり走らせてやりました。もう他人に預けることもないので、おいしいものも食べさせました。見納めだからと、黄河の畔にも連れてゆきました。幸い健康状態も良好で、最後の夏と秋を堪能できたと思います。

そしてその後、航空機に乗せるまでが一苦労だったのです。まずはフライトの選択。航空会社によって条件がバラバラで、結局最後には高い全日空で帰りました。ペットを乗せる、などということに慣れていない中国の航空会社では、直前になって搭乗拒否される可能性すらあったからです。

最後には、北京の動物病院に5日間いて、検査や処置。中国の税関に申請をして輸出許可証を入手。私は北京駅前のYHに泊まって、毎日病院まで通いました。安華橋という、市内北部にありましたが、近くに川が流れていて、毎日散歩に連れ出しました。尖閣余波も先が見えぬまま、12月の寒空の下、「ようやくなつめと一緒に日本に帰れる」と涙したのは忘れられません。


わたしはもうすぐ、ひこうきにのって、にほんというくにへいきます。
わたしをうみはぐくんでくれた、こうどこうげんのそらもくももかぜもすなもあめもゆきもたいようも、だんだんばたけもなつめばやしも、みんなみんなさようなら。
いつもいっしょにあそんでくれた、ありんこもごきぶりもばったもちょうちょもさそりもねずみものうさぎも、はともすずめもかささぎもぽぽどりも、みんなみんなありがとう。
わたしがここにくることは、にどとありませんが、わたしはいつまでも黄色い大地のこです。