李家山再開発

きのう、李家山へ行ってきました。先日、大門を売った孫さんから、李家山で個人がウン百万元を投資して、大開発が進んでいるそうだ、と聞いたからです。李家山は磧口の隣村というか、すでに一体化した観光地となっていて、私がこの地に来て、初めて“住んだ”村です。当時からすでに民宿が2軒あって、そのうちのロンファのヤオトンで半年ほど暮らしました。今から9年前、2005年のことです。

当時は観光客といっても、写真好きの人がチラホラやって来るのと、美術学校の学生たちが泊まりがけで絵を描きに来るといったお客さんたちがほとんどでした。中国のある有名な画家がこの村で絵を描いて発表し、それで絵描き仲間ではちょっと知られた村だったようです。

しかしここも、中国農村状況の例にもれず、一時は村の人口そのものが激減し、すっかり荒れ果てて、夜になっても灯りがともっているのは、2軒の民宿だけではないかと思われるほど、寂しい村になっていました。

ところが、3年ほど前から、行政が乗り出して、無人の崩れかけたヤオトンをどんどん修理し始めたのです。磧口には観光客は来ていたので、それを李家山まで呼び戻し、一大観光地として整備しなおそうということのようです。そもそもこの一帯は、山西省で最初に“観光による村おこし”政策を行政が推し進めたところでもあるのです。しかし、あちこちに新しい手が加わって、きれいになるに従って私の足は遠のき、最後に行ったのは1年以上前だったと思います。





久しぶりの李家山は、ちょっと見には、確かに“きれい”になっていました。この写真ではよくわからないと思いますが、屋根の瓦や、ショウという飾り物、石を積み上げた壁などは、多くが修復されたものです。

今回は、ちょうど足があった(このことが私にとっては、いつでも最重要課題)ので、親しくしていた老人たちの顔を見に行きました。シーチャンとラオダー、イーランの3人で、3人とも当時から仲良くしていた友達です。シーチャンのお父さんとラオダーの連れ合いは亡くなっていますが、他の村々と比べて、いわば“存命率”がとても高いところです。


極貧生活を意に介さない、まるで仙人のようなシーチャンは、私が来たと聞いて、坂道をよろよろよろけながら杖をつきつき顔を見せてくれました。めっきり老けてしまって、次に来るときには会えるのかどうか。。。好物の、でも買えない、酒を1本持ってこればよかったと後悔しました。


シーチャンより10も年上のラオダーはまだかくしゃくとしていました。畑にはもう出ないといっていましたが、実は彼には隠れたアルバイトがあるのです。普段はこの顔に、黒縁の丸メガネをかけ、長キセルを持った風貌で、写真愛好家たちのレンズが集中するのです。それに彼は、当地の民謡が歌えます。陝北地方は民謡で有名ですが、不思議と山西省の方ではあまり歌う人がいなくて、ラオダーは貴重な存在です。それで、観光客たちが指名したりして、中にはお金を置いてゆく人も少なくないというわけです。(おせっかいのロンファが仲立ちをすることが多い)


イーランも、ほんとうにいつも元気で、私がわかっていようといまいといつまでもしゃべり続ける、かわいいばあちゃんでした。磧口に市が立つ日なども、ぴょんぴょん身軽に山道をかけ下りて、私が“老バンビ”と名付けたくらいです。先回会ったときには、すでに認知症が進行していて、なかなか私のことがわかりませんでした。それでも最後にはなんとか認識してくれたようでしたが、今回は残念ながら最後まで私がわかりませんでした。

ところが私の手をとって、何度も甲をなでながら、「きれいな手だねぇ、きれいな手だねぇ」「私の手はこんなにガサガサよ」というのです。いうまでもなく、私の手など、同年代の日本女性と比べればお話にならないほど荒れて酷いものです。それでも、この過酷な黄土高原で生まれ育ち、10代で李家山に嫁ぎ、子を産み育て、来る日も来る日も耕し続けたイーランから見れば、すべすべしたきれいな手だったのでしょう。そしてイーランは、きっと心の底で、そんな“きれいな手”に憧れ続けて88年という歳月を送ったのです。次に会える機会があるのなら、せめて私は極上のハンドクリームを持って行って、ばあちゃんの手にたくさん塗ってあげようと思っています。