老哈爾濱  つづき

移動続きでPCの前に座る時間もなく、遅くなりました。私はいま名古屋のホテルですが、明日のフライトで北京に向かいます。例の、深夜0時過ぎに北京到着という、アラブ首長国連邦のEtihad航空です。

で、老哈爾濱のつづきなんですが、左側の文字の部分には、だいたい以下のようなことが書いてあります。

「1896年から1903年、中東鉄道の建設に伴って、ハルビン一帯は、商工業の発展と人口の集中が始まり、ハルビンにはすでに近代都市の雛形が形成されていた。20世紀初頭、ハルビンはすでに国際的交易都市となっており、前後して33の国から16万余人の僑民がここに集結し、19の国がここに領事館を設置していた。同時に中国民族資本も発展著しいものがあり、ハルビンは当時の北満経済の中心であり、国際都市としての地位を確立していた。
ハルビンは、中国マルクス主義思想が比較的早く到達した地であり、労働者・学生の運動も活発な都市であった。1923年、ハルビンには東北地区最初の党組織が成立し、1927年、東北地区第一回の党大会が開催され、あわせて満州臨時省委が成立した。ハルビンは東北人民の革命闘争の牽引車となり、後に抗日闘争のリーダーの役割を担った。」

中東鉄道というのは、帝政ロシアが敷設した東清鉄道のことですが、ご承知のように、日露戦争後のポーツマス条約で、日本は、長春以南の東清鉄道を獲得し、1906年南満州鉄道株式会社を設立しているわけです。

ですから、日本人が“満州”の地に日本人街を建設して、家族ぐるみで移住して来たのは、満鉄成立以降ではないかと思うのですが、もっと早くに日本人街は形成されていたのでしょうか?つまり、和服姿の女性が街路に見られるような。

私が少し奇異に感じたのは、文章を読む限りは、和服の日本人女性ではなく、スカートのロシア人女性の姿が写っているような写真もたくさん残っているのに、なぜそういったものを使わなかったのか?ということなんです。ハルビンの国際性をうたうのなら、日本文字や日本女性ではなく、西欧・ロシア的な風物の方がぴったりするのではないかと思うからです。

で、以上の疑問は、きっとThomasさんが解いてくださるものと期待しています。よろしくお願いします。

附:yozakuraさんへ
9月6日の記事のコメント欄に、yozakuraさんの書き込みがあるのを今日発見しました。
Thomasさんのアメブロは、様々な不具合の結果、編集欄に入れなくなったそうで、はてなブログに引っ越されました。そのことを、アメブロに書き込むこともできないので、どうされたんだろうと、心配されている方もきっとたくさんいらっしゃると思いますが、没法子のようです。

フィラデルフィア日記は以下です↓
http://thomas-penfield.hatenablog.com/