コメントありがとうございます。

いまは離石のホテルで繋いでいます。なつめがいなくなった分自由がきくようになって、最近はたびたびここを訪れては、私としては“贅沢な”ひとときを過ごしています。

7天連鎖酒店といって、いわゆるビジネス系のチェーンホテルですが、ここ5年くらいの間に、こういったホテルがどんどん増えて、どこの町に行っても見られるようになりました。7天は全中国で2000店くらいあって、離石だけでも3店あります。料金は地区によって違いますが、ここは比較的安くて、1泊2000円ほど。アメニティーなどはすべて別料金ですが、清潔で、ネット環境がよく、もちろんネット予約ができ、内鍵がしっかりかかって安全で、なぜか寝る前に牛乳をサービスしてくれ、私はよく使っています。以前はもっとずっと安い、「招待所」というところを利用していたのですが、オリンピックの時から、そういうところは外国人を泊めなくなりました。

中国もやはり、なんでもポイント制が導入されるようになって、ここもポイントがたまると料金が安くなったり、ポイントで泊まれたりしますが、一番嬉しいのは、チェックアウトの時間が延びることです。ポイントによって、普通→銀→金カード会員へとステップアップしてゆくのですが、私はなんと、今日から金カード会員になっていました。金会員は、チェックアウトが午後2時になるのです。この上に白金会員というのがあるのですが、もしかしたら午後3時?

で、ゆったりとネットを繋いで、ようやくコメント欄を読むことができました。最近、村の方ではなぜかコメント欄が表示されないのです。

トーマスさん、もちろん私も考えました。空いた部屋はいくらでもあるので、ちょっとお金を払って修理し、ちょっと大型の、できれば日本製のテレビでも置いて、壁には日本の写真なんかも飾って、ミニ「中日友好交流館」でも作ったら、村人も喜んでくれるのではないか、と考えました。

しかし、しばらくして、せっかく作っても利用されないだろうということがわかりました。理由は簡単で、「必要とされていない」からです。彼らはそもそも「室内」に集まって何かをすることが好きではなく、常に屋外で、三々五々集まってはおしゃべりをしたり、バクチをしたりしています。夏には日陰で、冬には陽だまりで。しかも、集まる人も場所も必ず決まっていて、どうやら縄張りがあるようです。

食事だって、自分の部屋の中で食べる人は少なく、外で食べるか、どんぶり抱えて他人の家に行って食べます。これも行き来する人も場所も決まっています。立ったまま、あるいは歩きながらというのもフツーです。必ずテーブルの前で座って食べるのは、村中さがしても私だけでしょう。お茶を飲むという習慣もありません。

テレビはほぼ全家庭にあるし、彼らが見るのは、食事も終わって、おしゃべりも解散して、寝る前にスイッチを入れるのがフツーで、テレビを見るためにどこかに出かけるというのはあまり考えられないです。

実際、2年前に立派な「文化広場」というのが完成して、テレビこそありませんが、テーブルにソファー、冷蔵庫や立派な調理器具もそろった、村人のための「公民館」ができているのですが(これは炭鉱が出費)、利用しているところを見たことがありません。つい先日、鎮政府の「移動映画館」がやってきて、カンフーもののけっこうおもしろそうなのをやっていたのですが、観客は5人だけ。どうやら途中で切り上げて帰ってしまったようです。

“文化活動”といっても、新聞や本を読むこともできないし、女性たちは刺繍や編み物をしますが、これらはもちろん単独でやるものだし、一時期、文化広場が完成したときに、盆踊りみたいな、こちらの踊りをしばらくやっていましたが(朝の6時から大音響!)、1か月も続きませんでした。

では彼らの最大の関心事は何かというと、それはズバリ「家族」です。村を出た息子や娘たちが孫を連れて帰ってきて、数日間を一緒に過ごす。あるいは農閑期に老人が町の方に出て行って、孫の面倒をみる。これ以上の楽しみはなく、また年寄りだけではなく、若い人たちにとっても、それが最大の「孝」であり、生きることの基盤でもあるのではないかと、私は考えています。しかしそれは当然横のつながりのない、縦方向の関係です。つまり私たちが考える「公民館」的な活動にはそぐわない、きわめて中国的な価値観ではないかと、一気に飛躍しましたが、私は考えているわけです。

ただし、都会の方へ行けば、老人のための「集会所」のような施設はどこに行っても見かけます。麻雀をやったりおしゃべりをしたり、よく利用されているようです。中国の都会はどこへ行っても高層住宅で、こちらの村のように三々五々集まる場所がないからそれも当然でしょう。そしてまた、都会に行けば行くほど、上記の縦方向の関係性が薄れてきているからではないかと思います。

村の歴史をどう残してゆくか、というのもとても難しい問題だと思います。下の招賢の町は、唐代から記録に残っているそうで、確かに旧市街の方に行ってみると、唐代はともかく、とても古い街並みが残っています。界隈は鉄と石炭が出たので、鉄器と陶器の生産が盛んで、現在の村人たちは誰も見たことがない大昔には、山の頂上に大きなお寺があったようです。地名も以前は「寺ナントカ底」という名前だったようです。だから、そこから歩いて30分の賀家湾村も、唐代からあった、という人もいるのですが、文字というものが書ける人がいなかったので(以前にはいたのかもしれませんが)、「村史」というものは残っていません。ただ、「族譜」というものがあり、それが誰の家に置いてあるのかも知っていますが、いまだ私には見せてくれないのです。

口承の歴史というものがあるのではないかと、私もいろいろ聞いてみてはいるのですが、せいぜい日中戦争の時代の記憶だけで、清朝となるともう誰も何も語れないのです。私が取材して、すでに亡くなってしまった人たちに、もっとそういったことも聞いておけばよかったと、今になって思いますが、いずれにしろ、言葉が通じない、ということが最大のネックでした。何度も書いていますが、北京から来た中国人が、80%以上聞き取れない、というほど方言がきつい地域なのです。

しかし、孫家溝村には何か文字に書かれた記録が残っているのではないかと思っています。この村で私がとても歓迎されたということを書きましたが、実はそれには大きな理由があるのです。最初に、曹ばあちゃんが、私のあげた本を何度も見ていたと書きましたが、娘さんは、「母は字が読めるから」といったのです。あの年齢で字が読める女性、というのは私の経験では初めてです。もちろんいちいち確認していたわけではないですが、それほど識字率というのは低いのです。そのことと関連があるのでしょうが、今回会った親族の人たちは、みな知的レベルが高く(こういういい方はほんとうに好きではないのですが)、孫たちもみな大学へ行ったり、太原で職に就いていたりして、少し話をするだけでも、賀家湾村の人たちとはぜんぜん違っていました。みな初対面でしたが、私のやっていることを理解してくれた上で、だからこそ、“賓客”扱いをしてくれたのです。賀家湾村と孫家溝村とでは、あきらかに“知の格差”があったのです。

トーマスさんのコメントに、ハッカのことが出ていましたが、山西省は今でこそ文化的には“遅れた”地域ですが、もともとは「山西商人」という言葉があるように、商売、とくに金融で栄えた地域です。今でもあちこちに“豪商”の邸宅が残っていて、観光名所になっています。「晋劇」が盛んになったのも、この山西商人の存在があったからでしょう。孫家溝村も、清朝の時代に大いに栄えたと聞きますし、当然教育レベルも文化レベルも高かったと思います。字が読めたのは曹ばあちゃんだけではなかったとしたら、きっと何らかの「村史」が残っているはずです。次回にまた聞いてみましょう。

六文銭さんのおっしゃるように、たとえ生身の友好的な交流があちこちに存在したとしても、いったん事が起これば殺し合いにつながるというのは、歴史が証明している事実です。そして殺し合いの先頭に立つのは、“孫家溝”の人々ではなく、“賀家湾”の人々ではないかと思うのです。そして中国が抱える9億といわれる農民たちのことを想像すると、私も心が暗くなりますが、あとしばらくは、村に留まりたいと考えています。

今現在やっていることは、“伝統農具”の写真を撮ることなのですが、これがなかなか見つからないのです。燃料として燃やしてしまったようです。使わないものを大切に保存しておく、などという習慣は、当然のことながらないですから。もっと“人里離れた”辺鄙な村まで行かないとない(使ってない)ようです。