一路走好

「十里(5キロ)離れれば風俗が違う」といわれているこの地で、賀家湾と孫家溝は40キロほど離れています。もちろん大筋は同じですが、細かいところで随分違いがあって私も驚きました。招賢界隈と三交界隈との葬儀の進行の違いを中心にご紹介します。

祭壇そのものが比較的地味で、お供えもずっと簡素でした。招賢では定番の、豚の頭とか、お金を模した飾り物もなし。

祭壇の前には粟殻を敷き詰めます。紅いたすきは、結婚して1年以内、あるいは妻が妊娠しているという意味です。夫もかけます。(これらは賀家湾も同じ)

葬儀の日の朝ごはんは、親族は祭壇の前で食べます(賀家湾ではこういう風習はなし)。油で揚げたキビ団子と具沢山の汁物というのはどこも同じ。婚礼でも同じものが出ます。

出祭(花輪や供え物を持って村内をまわる)のとき、供え物を手に持たず、こうやってイスの上に乗せて廻るのも三交、臨県の風習です。

翌朝の出棺は、5時半でした。今は季節がいいのですが、真冬の埋葬はほんとうに死にそうに寒いです。
葬儀の手伝いをする人はまったくの平服で、くわえタバコ(右から2人目)もフツーどころか、タバコを1本ずつ配って回る人が必ず設定されて、関係者やまわりの村人にふんだんに配られます。日本のように“葬儀屋”の人がくることはありません。

粟殻の飾り方も違っていました。黄泉の国への道案内をするといわれる雄鶏もなし。


拉霊布は、90センチほどの幅のものを、賀家湾ではテントのように拡げて曳きますが、ここでは縄のようにねじってありました。かなりの速度で走ります。

漢族の棺というのはものすごく重く、重いほど上等なんだそうです。屈強の男たち8人くらいで、途中で交替しながら担ぎます。この棺は連れ合いの孫じいちゃん(07年に死亡)の手造りだそうです。棺は70歳にもなれば、だいたい誰でも用意しています。(ちなみに、“遺影”に使う写真を撮って欲しいとよく頼まれ、実際に賀家湾では、ほとんどの老人の写真を撮りました。彼らが写真を欲しがるのは、日本人の感覚と大いに違って、棺と同じように、きちんと準備を整えてお迎えが来るのを待つためです。)

通り道にあたる人は、門口で火を焚いて死者を送ります。これも賀家湾にはありません。

棺を墓室に下ろすことを「下葬」といいますが、日の出の時間と重なるのがベスト、今回はぴったり合いました。

蓋布の隅を切り取って、それをまた細く裂いて、親族に配られます。

墓室の中に生ものが入れられることは、賀家湾ではありません。賀家湾では、壷や硯や皿など、陶器類が多いです。

下葬が終わると、女性は後ろにたらしていた布を巻き上げて、ターバンのようにします。埋葬が無事終了したという意味です。

腰に巻いていた麻紐を木に括りつけます。高い位置ほどいいそうです。


埋葬が終了して、最後は飾り物を燃やします。なんでも燃やすことによって死者に届ける、というのが基本です。

四十九日まで、七日ごとに墓参りをします。その次は一百日、次は一周年。三周年が終わると、あとは普通に、先祖の墓参りということになります。


おばあちゃん飼っていた、メス犬のワンジャイがずーっとついてきました。普段は絶対に遠出しない犬らしいのですが、最後のお別れまで離れませんでした。

全体として、三交鎮界隈の方が、招賢・磧口鎮界隈(この二鎮は、私が見た限りほぼ同じ)よりもやや簡素でした。招賢では、頻繁に「哭」(クー)という儀礼が行われ、女性が棺の前まで行って泣くのですが、今回は、葬儀(つまり埋葬の前日)のときにはほとんど哭は行われず、翌朝出棺の前にかなり長く行われました。
大きく違うのは、合葬がこの日には行われないということです。つまり、招賢・磧口では、後から亡くなった人の葬儀のときに、先に亡くなった連れ合いの遺骸を掘り起こして、翌朝一緒に埋葬するのが普通で、ときどき日が悪いと、合葬だけ何年か後に行われます。三交の方では、ほとんどが、合葬は日を改めてするのだそうです。

「一路走好」(イールーゾウハオ)というのは、決まり文句で、「安らかにお眠りください」という意味です。ちなみに、中国語の「走」は「行く」という意味で、走る、という意味はありません。

◎違いがわかるように、賀家湾界隈の写真を並べようとしたのですが、写真が古いのでアップできないんです。つまりこのブログのフォトファイルには886枚しか保存されず、それ以前のものは、何かを削除しないと入らないみたいです。
次回帰国の折には、あらたにHPを立ち上げて、いろんな写真をご紹介したいと思っています。またこの場でお知らせしますので、興味がある方はぜひごらんになってください。