薄味の弔辞

今回、ほんとうは三交から郝峪塔(ハオイーター)という村に行くつもりでした。DVDは樊ばあちゃんに預けておけばいいと思って持参したのです。ところが雨になりそうな天気になってしまったので、荷物を全部持って移動しなければならない郝峪塔は次回にゆずって、日帰りできる孫家溝に予定を変更したのです。

孫家溝には私の大好きなおばあちゃんがいました。おばあちゃんが話してくれた話はほんとうに悲しくて、まして日本人ならば、胸がかきむしられるような辛い話でした。ところが2回目に行ったときには、もうその話には触れず、ほんとうに優しくしてもらったのです。なんていうか、“菩薩様”のような笑顔の人で、泊まってゆきなさいと何度もすすめられ、ごはんも用意してくれて、おみやげまで持たせてくれたのです。2年ほど前に会ったときにはすでにかなり弱っている感じだったので、もしかしたらと、予期はしていましたが、とにかくもう一度会いたいという思いは強かったのです。

途中でピックアップしてもらった薬局の老板にさっそく安否を問うたのですが、彼はなんと、その曹鳳伶の葬儀の手伝いのために村に帰るところだというのです。

訪ねて行った人がすでに亡くなっていた、という話は、この間幾度となくくり返してきたわけですが、元々は予定がなかったのに、急に来ることになったのは、おばあちゃんが私を呼んだとしか思えませんでした。

部屋に入ると、親族の人たちがたくさん集まっていました。老板が私のことを紹介すると、娘さんが寄ってきて、「あなたのことは母から何度も聞いている」というのです。そして、私があげた本(中国語の証言集)をいつも見ていたといってその本を持ってきました。どこか奥から出してきたわけではなく、おばあちゃんが寝ていた炕の上に置いてあったのです。それは手垢で真っ黒に汚れていて、あぁ、おばあちゃんはほんとうに何回も何回も見てくれたんだと、思わず胸が熱くなりました。あさってが葬儀で、翌日が埋葬だから、このままウチに泊まって欲しいといわれたのですが、樊ばあちゃんも待っていることだし、一旦三交に帰って、出直すことにしました。

翌日、老三(3番目の子どもという意味)が三交まで迎えに来てくれて、再び孫家溝に向かいました。その頃から雨が降り出しましたが、村人たち総出で、着々と準備はすすめられます。「あなたは賓客だから、好きなように、写真も何を撮ってもらってもいいよ」とまでいわれて、あまりの歓迎ぶりにちょっと驚いたのですが、曹鳳伶ばあちゃんの親族の人たちは、みなばあちゃんに似たのか、とても優しくて感じのいい人たちばかりだったのです。

そのうちに、娘さんがやって来て、弔辞を書いてくれないか、というのです。これにもびっくりしました。賀家湾界隈の葬儀ではそういったものは目にしたことがないのですが、ここでは午後に行われる、メインの儀礼の最中に、何人かが弔辞を読むのが習慣なんだそうです。そしてその弔辞は、その場で燃やして、故人に届けることになります。

しかし、突然言われてさらさらと弔辞が書けるほどの教養も中国語能力もないので、日本語でもいいですか、というと、う〜ん、と渋ったのですが、私の気持ちはおばあちゃんに通じるはずだから、ということで、日本語で引き受けることになりました。それで、おばあちゃんから聞いた話と、優しい笑顔は一生忘れません、ありがとう。というようなことを400字くらいにまとめて、翌朝娘さんに渡しました。もちろん心を込めて書いたのですが、内心、どうせその場で燃やしてしまうものだから、という思いがあったのは事実です。

ところが葬儀が始まってしばらくすると、葬儀をとりしきる総官と呼ばれるおじさんがやって来て、もうじき順番が来るからこれを読んで欲しい、といって1枚の紙を私に見せたのです。よく見ると、私が日本語で書いた弔辞の中国語訳文です。最後に私の名前もちゃんと書いてあります。え〜っ!何これ?私はしばらくの間事情が飲み込めませんでした。何度見直しても、私が書いたものの訳文です。いったいどういうこと?

まさに、狐につままれたような顔をしている私に、お孫さんの一人がやってきていうには、私が書いたものを携帯のカメラで撮って、海南島の日本企業で通訳として働いている彼女の友人に送って、翻訳してもらったのだそうです。え〜っ、そんなことなら最初から言ってよ。もうちょっと書き方があったのに〜。

というのは、中国人というのは、とかく感情丸出し、とりわけ葬儀の場では、おおげさに泣いたり叫んだりするのが、いわば“礼儀”と考える人たちです。私の書いたものは、いかにも日本人らしく、さっぱり薄味。実際、私の前に読んだ若い人は、涙ながらに鼻水すすりあげて読み上げていました。

私の発音では村人に通じないからと、その海南島に友人がいるとかいう若い女性に代読してもらい、私が祭壇の前で火をつけて燃やしました。周りには、親族と村人がズラ〜リ。私は思わず冷や汗がタラ〜リ。まったく、スマホ恐ろし!です。

ところがこれに終わらず、最後に近親の者から順番に名前を呼ばれて焼香をするのですが、このときにも私の名前が呼ばれたのです。しかも、かなり早い順番で。私は最後列で写真を撮っていたのですが、あわてて駆けつけました。

付け加えると、翌日の埋葬のとき、墓室に下ろす前に、棺を覆っていた布の一部を切り取って、それをまた小さく裂いて、親族に配る習慣があるのですが、その布切れも私のところに届きました。そして、帰るときには、おばあちゃんの形見にと、綿入れの上着までいただいたのです。

界隈は反日感情が強い地域だといわれていますし、実際、それを思わせる言動にもたびたび出会っています。薬局の老板だって、いつもかなり強烈な日本批判をする人です。もし統計を取るならば、当然「日本にいい感情を抱いていない」あるいは「どちらかといえば、…………」という90%以上の人々の中に属するでしょう。しかし、現実の生身の交流の中では、歩いている私のために車を停め、私の撮りたい資料写真のために便宜をはかってくれ、また2泊3日の間滞在したのは、彼の家でした。スマホを通じて要請に応じてくれた海南島の友人の翻訳は、まったく完璧なものでしたし、親族のひとりの娘さんは、現在日本留学中だそうです。

目に見えない90%の実態がいったいどういうものであるのか、今回ほど考えさせられたことはありませんでした。いわば、1片の“薄味の弔辞”が、故人だけではなく、生きて生活している90%に属する人々の心にも届くのだということを、私自身、身をもって知る経験となったのです。

*葬儀写真に関しては、また後日ご紹介します。