孫家溝村

臨県の写真館にデータを置きに行って(遺影写真は1日ではできない)、その夜は三交(サンジャオ)の樊ばあちゃんの家に泊まりました。臨県から三交まではバスで30分、かつて日本軍の駐屯地があった町です。三交に日本軍がいて、北にある臨県に八路軍の拠点があり、界隈はいわば“前線”であったわけです。いたるところで小さな戦闘行為があり、たくさんの死者を出しているところで、“反日感情”ももっとも強いといわれています。

この町では10人ほどの老人から話を聞いていますが、やはり実際に間近で日本人を見ていたり、口をきいたことがある人が多く、ほかの村々とはまた違う貴重な話を聞き取ることができました。その時に私を伴ってくれたのが、樊ばあちゃんで、なぜか彼女は、標準語とは程遠いとはいえ、ぎりぎり私が聞き取ることができる中国語を話す人なのです。彼女の協力がなければ、ただひとりの記憶すら、記録することはできなかったと思います。

しかし今回は三交が目的ではなく、5キロほど離れた孫家溝(スンジャーゴウ)という村に、老人たちを取材したときに撮ったビデオ映像を渡すためにやって来ました。どこに行っても、村の誰かの家にはDVD再生機(みなそれで、晋劇などの伝統芸能を見る)があるので、それで見てもらうことができるし、子供たちにとっては、貴重な映像記録となります。実は2年ほど前から、老人たちの安否を確認しつつ、それを渡すことを私の重要な仕事としているのです。

村までは徒歩で1時間くらい。名前が示すとおり、谷筋にあるので、いったん山道を登ってから谷に下るという、かなり不便なところにある村です。私は疲れたら誰かに拾ってもらおうと思って歩き始めたのですが、予期した通り、1/3くらいのところで、後ろから来た軽自動車が停まってくれました。乗り込もうとすると、あら、薬局の老板じゃないですか。朝来るときにちょうど店を探したけれど、引っ越したの?と聞くと、薬局は儲からないから、今は離石で働いているとか。実際、こちらにはびっくりするほど薬局が多いのです。思うに、医療費が高いので、病気になったら投薬で治すということでしょう。いわゆる“開業医”というのは、たま〜に漢方医の看板をみたりしますが、基本的にはゼロ。今や人口数百万に近い離石にある4階建ての人民病院だって、日本のちょっとした個人病院よりちゃちです。

話が飛びましたが、今回私が携えてきた5人分のDVDのうち、4人がすでに亡くなっていました。2年ぶりに来たのですが、私が取材した人たちは、当然のことながら村の最高齢者に近く、こういう結果は予期できたことでした。この村の人たちも、三交に隣接していたせいで、日常的に日本軍の略奪行為に遭っており、また、労働力として駆り出されているので、日本人に対する恨みは強く残っています。三交の樊ばあちゃんの連れ合いの李じいちゃんも、日本軍の4か所のトーチカの造営にすべて駆り出された経験の持ち主で、いくつかの日本語の単語をまだ覚えていました。最近日本で、企業による強制連行裁判が大きな問題になっていますが、こういった小さな村々で、日常的に駆り出されて、労働力を搾取された人々の数と労働力の量は膨大です。

で、孫家溝に戻りますが、ここも過疎化の進行が激しい村です。バイクがあれば臨県まで30分ほど、離石までも1時間ほどで行けるのですが、“通勤”というシステム自体が考えられないので、みな離石へ、そして太原へと行ってしまい、小学校がなくなった今、村に残っているのは老人だけです。

以下に10枚の写真を添付しましたが、この中で実際に人が暮らしているのは、ほんの1割程度のヤオトンです(人が住んでいなくても、紅い対聯だけは貼ることが多い)。7枚目の写真の煙突の下にはすべて部屋があるわけですが、誰も住んでいません。その下の写真の立派な建物にも、1家族が住んでいるだけのようです。

清朝末期には、主に商売で儲けた人たちが村に帰って立派な家を建て、とても繁栄した村のようですが、それらが廃墟になりつつある現実は、日本や欧米に限らず、“いつか来た道”なのでしょうか?