豊かさのバロメーター?

昨日午後、招賢に着いたときには小雨がぱらぱらしていました。それでも傘なしでもギリギリなんとかという程度だったので、私はビニール袋を頭に被って、坂道を登り始めました。途中で休憩しようと荷物を道端にドン!と置くと、キャン!という声が返ってきたのです。ぜんまい仕掛けのおもちゃみたいな子犬が一匹、ちょこんと座っていました。


その頃には雨も上がっていたのですが、すっかり濡れそぼって、ぶるぶると小刻みに震えていました。私はちょうどカステラみたいなおかしを買って帰ったところだったので、少しちぎってあげてみたのですが、まだ食べ方がわからないような幼さで、鼻でぐるぐる押してしまって口まで届きません。それで、私が粉々にして手の上にのせて口元に近づけてみたら、ぺろぺろとなめとって、どうやら食べることができました。まだまだお母さんのおっぱいしか知らない、何十日目かの赤ちゃん犬です。


ところがよく見ると、なつめの小さい頃にそっくりなのです。子犬なんて、どれもこれも似たようなものさ、と思われるかもしれませんが、違います。当地の犬は、ほとんどが短毛種で、いわゆるシェパードのように大きくなる犬が多く、小さくてもまず短毛です。長毛種は、鼻の潰れたペキニーズのような犬は時々見ますが、なつめのような犬は珍しいのです。離れた村で見たことは一度もありません。

なつめのお母さんは、隣村の犬で、今はもう死んでしまいましたが、そこからもらわれていった犬が、この界隈ではけっこう多いのです。賀家湾にも3匹ほどいますが、みななつめの親戚筋ということになります。お母さん犬のいた工農庄村にも何匹かいます。おそらくはこの子犬も、なつめの遠い親戚にあたるに違いありません。

私がこの犬を連れて帰るかどうか、その場でいかに激しく葛藤したか、もうみなさんは容易にご想像いただけるものと思います。しかし、一度連れて帰ったらもう捨てることはできません。同じ庭に住んでいる隣人が犬好きなら、それも何とかなりそうですが、なつめがスコップで殴り殺されそうになったことがあるくらいですから、連れて帰ればまた一時も目が放せません。なつめをようやく安全なところに連れていって、私も“自由”になったばかりで、もう犬を飼うことはできないのです。

まさに心を鬼にして、たぎる未練を断ち切って、私はその場を離れました。振り返るとよちよち私を追いかけようとしていました。私はほとんど泣きながら、子犬の姿が見えなくなるところまで、走って帰ってきたのです。

ところが夕方からはことのほか冷え込んで、私は夜になっても、子犬のことが気になって気になってなかなか寝付かれませんでした。あの場所はちょうど人家からは離れていて、寒さがしのげるような場所がないところです。なぜせめて人家のあるところまで連れてきてやらなかったのだろう。もしかしたら、拾ってくれる人がいないとも限らなかっただろうし、残飯を口にする生命力があるのなら、ノラとして生きる選択肢だって残されているのに、かわいそうなことをしてしまったと悔いが残りました。真夜中に、起きて探しに行こうかとまで考えたのですが、当地ではみな放し飼いのため、こういった光景は、いわば日常茶飯事なのです。季節が巡ればメス犬は当然孕み、産まれた子はゴミと同じ扱いで、トイレやゴミ捨て場に無惨に投げられてしまうのです。

当地には“ペット”という概念はまだなきに等しく、私がなつめを飛行機に乗せて連れ帰ったというのは、すでに“語り草”になっています。繁殖用に飼われているチベット犬が3匹いますが、鉄格子の中から出してもらえることはありません。以前ここにも書いたことがあるサモエド犬も、鎖で繋ぎっぱなしで、糞尿もそのまま、昨日も通りがかりましたが、雨に濡れてしょんぼりしていました。
ところが、太原まで行けば、犬にかわいい服を着せて散歩させている姿をよく見かけます。動物病院も繁盛しています。これもまた豊かさのバロメーターなのでしょう。昨日まで飼っていた犬を、犬買いにわずかな金額で売り払って(食用)しまうようなことがなくなるのは、いったいいつの日なんでしょうか。