旅する鏡頭(ジントウ)

昨日昼頃、磧口に到着したとたん、劉順とばったり出会いました。劉順は、磧口一ボロい旅館を経営していて、私は以前そこにしばらく住んでいたことがあります(当時は1泊10元)。旅館と同時に写真屋もやっていて、それは証明用写真程度のものしか扱っていないのですが、元々は彼のお父さんが磧口唯一の写真館を経営していました。私が住んでいたころは、おじいさんともときどき言葉を交わしましたが、3年ほど前に亡くなりました。

劉順はビニール袋を抱えていたのですが、私の顔を見るなり、待ってましたとばかり、「見てほしいものがある」というのです。そういうときはまず間違いなく“儲け話”の類で、私の“顔”でなんとかならないだろうか?という相談に決まっているのです。嫌な予感がしましたが、世話になることだってあるんだし、あまり邪険にしてもと思い、袋の中身を見せてもらうことにしました。それがこの下の写真です。



イカのカメラであることだけは間違いないようです。亡くなったお父さんの形見だそうですが、息子が結婚して、家を買ってやりたいから売りたいというのです。どうやって売ったらいいんだろう?と聞かれても、そもそもモノの売買には疎いし、場合によってはとてつもない値段がつくような、こんなものをどうやって売ればいいのか、わかりません。ヤフオクとかいうのがあるけれど、そんなところで扱う単価のシロモノではないでしょう。

劉順は、まったく偶然私に会っただけなのにもかかわらず、中国人はこういったものの価値がわからないけど、日本人ならわかるから、なんとか売る方法を考えてくれないか、というのです。この忙しい最中に“イヤなヤツ”に会ったなと内心苦虫を噛み潰していると、彼は続けて「日本製のレンズだと思うけれど確かめてくれないか」といって、ブリキの缶に入った数個のレンズを取り出してきたのです。それがこの下の写真。




どうしてこんなものがあるのかと聞いてみると、劉順のお父さんは、若い頃、つまり日中戦争の最中に、北京や天津、上海にときどき出かけていたのだそうです。

私が会っていたころは、もうすでにもうろくして、ヨボヨボの何でもないじいさんでしたが、そんな華々しい過去があったとは、あぁまったく想像だにできなかった。聞いておきたいことも多々あったのに、誠に残念なことをしました。

これらのレンズは日本から、まず間違いなく侵略者と共にやってきて、天津だか上海だかの港町で中国人の手に渡り、その後もいろいろな人の手を経て、こんな辺鄙な黄土高原の村にまで旅をして来たのでしょう。これらのレンズの向こう側に広がっていた風景はどんなだったのか?美しかったのか?静かだったのか?寂しかったのか?熱かったのか?あるいは冷え冷えとして残忍だったのか?尽きることなき憤怒と悲哀だったのか。。。このレンズに刻み込まれた幾多の歴史の一こま一こまを、ピンセットでずるずるとムービーフィルムを引き出すように、見てみたいものだと思いました。

どなたか、こういうコトとこういうモノに詳しい方、アドバイスをいただけると助かります。

*鏡頭=中国語でレンズのこと