ふるさとの山に還りたい

一昨年の5月に、村の老人が井戸に投身自殺をしたことは、以前ブログに書きました。じいちゃんが住んでいたころからすでに廃屋さながらに粗末な一戸ヤオトン(普通は、最低でも3つくらいは部屋がある)でしたが、以来そこは荒れ果て、固く扉が閉じられて、すぐ隣の新築の平房に住んでいた息子夫婦も、いづらくなったのでしょう、いつの間にか引越していました。

ここは、そもそもが村はずれの位置にあり、またすぐ下を招賢に向かう道が通っていて、その道を使うため、私はじいちゃんが死んでからは、めったにそこへ行くことはありませんでした。ところが、どういうわけか、今月の4日、何ヶ月ぶりかでその道を通りました。すると、封印されていたはずの、その部屋の扉が開いていたのです。

不思議に思って中をのぞいてみると、見たことがない男性がひとり寝ていました。一目で“病に臥せっている”ことがわかりましたが、布団も新しかったし、枕元に電気ストーブも置いてあり、誰かが面倒を見ていることはわかりましたが、それにしても、窓ガラスは割れたまま、炕の上に衣類や空き箱やゴミが散乱していて、イヤでも病の深刻さをうかがわせるような、陰惨な部屋の空気でした。

その男性は私の顔を見ると、何やら急に話しかけてきたのですが、例によって、当地の純方言で話されるとさっぱり理解できません。ただ、私が日本人であることは知っているようでした。どれくらいここにいるのかと聞くと、1ヶ月くらいだと答えました。結局彼の要求は、目の前に置いてあるコップの水が冷たくなっているので、それを捨てて、ポットに入っている湯をついで欲しい、というしごく簡単なことだったので、私がそれをしてあげると、またまた何か要求があるようで、懸命に訴えるのですが、如何せん、寝たきりでジェスチャーが伴わないので余計にわからないのです。そこで、誰かいないかと外に出てみると、ちょうどシーピンが歩いてきたので、彼にバトンタッチして、私はなつめを連れて家に戻りました。きっとそんなに長くはないだろうと、彼の蒼白だった顔を思い浮かべながら、その夜は床につきました。

それから4日目の朝、棺材を担いだ村人が部屋の前を通ったので、「誰が買ったの?」と聞きました。こちらでは、70歳も過ぎれば、生きているうちに棺材を用意するのが普通です。すると、私が4日前に会った男性が、今朝方亡くなったというのです。

さっそくそのヤオトンに行ってみると、見知った村人が2人と、最初に書いた、自殺したじいちゃんの息子と、見知らぬ女性が2人であれこれ相談事の真っ最中でした。そこでようやくいろんな関係がわかったのですが、亡くなった孫さんは今年50歳、つまり満でいえばぎりぎり40代という若さで亡くなったことになります。肺の病気だったそうですが、肺がんではないそうで、結核だったのかも知れません。それ以上詳しいことは聞けませんでした。それにしても、日本であるならば、彼は間違いなく病院のベッドで息を引き取ると思うのですが、こちらではよほどの金持ちでない限り、長期入院というのは経済的に難しく、特に老人は遠慮もあって、効き目があるのかないのかもわからないような安価な投薬で、じっと死期を待つというケースが多いのです。

一昨年までここに住んでいて自殺した高じいちゃんは、若い頃にすでに離婚していて、別れた連れ合いが、息子を連れて賀家湾の孫さんに嫁いだのです。その孫さん夫妻は20年以上も前に亡くなって、高じいちゃんは、自分の息子が住む賀家湾に引っ越して、孫さんの家にひとりで住んでいたのです。この家で最初に生まれた、亡くなった孫さんは次男ということになり、他に3人の娘さんがいて、故人を含め、今はすべて太原が生活の拠点です。

その孫さんが、当然死期を悟っていたと思うのですが、わざわざ病身をおして賀家湾にやってきたのは、両親が葬られているこの地で最期を迎えたいと考えたからでしょう。彼もすでに離婚していて、連れ合いと一緒に葬られることはありません。自分が生まれ育ったなつかしいふるさとの山、過酷な環境の中でせいいっぱい自分を育んでくれた両親の墓の近くに、安住の地を求めたからに違いありません。

彼には3人のこどもがあるのですが、武漢の大学に通う長男は、なぜか最後まで姿を見せませんでした。太原で働く長女と次男、4人の兄弟姉妹、うちひとりの連れ合いの7人が親族のすべてで、他におくやみに現れた人もいなかったようです。故人の親の代に、隣の孫家塔から引っ越してきて、じきに亡くなっているので、村人との付き合いも浅く、直接葬儀の手伝いをする数人を除いては、ほとんど誰も顔を見せませんでした。

私が4日前に会ったときは普通に話をしたといったら、みな驚いていたので、おそらく彼らがかけつけたときは、すでに昏睡状態に入っていたのでしょう。この地に生を受け、50年にも満たない人生をいま終えた孫さんが、最後に意思的に口をきいたのは、もしかしたら私だったのかも知れません。私が日本人であることは、おそらくは、高老人の葬儀のときに来ていて知ったのでしょう。一目見て思い出すほど、そのときの彼の意識ははっきりしていたのです。最後に懸命に何かを訴えていたのですが、今となっては、そのとき彼が何をいいたかったのか、聞き取れなかったのが残念でなりません。