廻れ!観覧車

鴨緑江の河口、黄海に面する港町、東港に到着しました。ここにある日本語専門学校の生徒との交流を続けて8年になります。生徒たちは学校の寮に泊めてもらって、同年代の中国の若者たちと3泊4日間生活を共にし、日本語(実はかなりカタコト)と身振り手振りで意思疎通をはかります。たった3日間ですが、私たち大人から見ると不思議なくらい、毎年別れの時には、涙涙……になるのです。彼らにとっては、きわめて濃厚で熱い時間が流れてゆくのでしょう。

なぜ、そんな聞いたこともない田舎町に日本語学校があるのかというと、これまた実に長い長い数奇な歴史があり、ここでは機会を次にゆずりますが、私がなぜここを知ったかというと、これまた偶然で、街ブラをしていたら、「にほんご」と背中に書かれたジャージーを着ている子どもたちに出会ったからです。

で、私はようやく自由時間がとれたので、昨日、瀋陽に戻るためのバス切符を買いに、隣の丹東市(バスで1時間ほど)まで行って、今にも降り出しそうな中、ちょっとぶらぶらしてきました。ここは朝鮮(中国では北は付かず、朝鮮と韓国)との国境貿易の最大基地であり、また「国境を巡る観光の町」としても栄えています。

ここには、かつて日本軍が建造した橋が2本かかっていましたが、その1本は1950年、朝鮮戦争のときに米軍に爆撃されて朝鮮側が崩れ落ち、いまは「鴨緑江断橋」という観光スポットになっています。ちょうど橋の真ん中で破壊され、その先には朝鮮側の橋桁が見え、その向こうに監視小屋があります。1枚目の写真は、鴨緑江大橋で、現在も北京→平壌間の国際列車が通り、日が暮れると、物資を積んだ朝鮮のトラックがゆるゆると通って、中国領に入ります。(断橋というのは、その向こう側にあって、1枚目の写真ではわかりませんが、3枚目の写真が断橋の上から撮ったもので、左上方が鴨緑江大橋です。写っている小船は、投網をかけていた朝鮮の漁船。)

私はこの10年間、ほぼ毎年この地を訪れ、鴨緑江大橋のたもとから、対岸の新義州をながめてきました。10階建てくらいのビルの上から見渡すと、新義州の町並みがすぐ間近に見られます。今回はその機会を逸してしまったのですが、その風景は、毎年毎年確実に変化しているのです。

昨年は、日が暮れてから、対岸にぽつんぽつんと灯りがみられましたが、これはこの10年間で初めてのことでした(もちろん今年も4、5ヵ所で)。それまでは対岸は漆黒の闇で、こちら(丹東)側の煌びやかなネオンの輝きと引き比べて、思わず胸に迫るものがありました。あちら側の闇の中で暮らしている人たちは、どんな思いで、こちら側の光の渦を見つめているのだろうかと。

3枚目の写真の橋桁の向こう側に見える観覧車は、7、8年前にできたと記憶するのですが、以来、一度も廻っているところを見たことがありません。あの観覧車が子どもたちの歓声を乗せて、ぐるーりぐるーりと廻る日が早く来ればいいなぁといつも思っていました。ただ、今年も観覧車は廻っていませんでしたが、この写真の右の方に(おそらくは)流水型のプールが新設されていて、2日前の好天の日にみなで訪れたときには、水着姿の人々の姿が見られました。最も、この界隈は、いわば外の世界から“丸見え”の地域ですから、住んでいるのは、おそらくは政府および軍の関係者とその家族ではないかと思われます。

鴨緑江沿いに遡ってゆけば、対岸はずっと朝鮮の風景が広がるわけですが、特に断橋のあるところが最大の観光スポットとなって、多くの観光客で賑わっています。不思議なことに、これまで日本人の姿を見たことはないのですが、韓国人の姿はたびたび見かけます。いうまでもなく、分断された祖国の風景が間近に見られるからで、喧騒の最中で、対岸をバックにひっそりと記念撮影をしている老夫婦の姿など見かけると、胸にじーんと迫るものがあります。インチョンから東港まで、週に3便ほどフェリーが出ています。

おそらくは、朝鮮族中国人のお嬢さんでしょう、貸衣装に身を包んで記念撮影です。

断橋よりバスで1時間半ほど上流に行ったあたりですが、今年は雨が多かったせいもあると思いますが、以前より、確実に緑が戻ってきているようです。

日本軍が造った工場と鉄橋。鉄橋は今は使われていないそうですが、工場の方は、以前は廃墟だったのが、昨年は煙突から煙が出ていました。青い屋根の建物も去年はなかったし、このあたりは新たに開発されているようです。

3歳からやっているというあかねちゃんのバイオリンの腕前は、“プロ級”です。このときの曲目は「少年時代」。私がリクエストして、(密かに)Thomas さんに捧げました。