「731」への道

9月10日、小雨に煙る中、「731部隊罪障陳列館」に行って来ました。(写真の線路は、研究棟に入る引込み線)

3年前に一度コースに入れたのですが、移動時間が長いため、生徒が疲れ果てて故障者続出になってしまったため、いったん中止したのを、昨年から瀋陽ハルビン間を高速列車が走るようになったので、今年復活させました。「高校生には刺激が強すぎるから、見せないほうがいい」という考え方は、私たちにはありません。

ところで、私たちのツアーは今年で11回目を迎えましたが、初回より一貫して、30年来の友人であり、職場の同僚であるTとの二人三脚で行って来ました。Tは、いい意味で“教師を天職”としているような男で、片や“教師にだけはなりたくなかった”私とは幸いいいコンビが組めて、いわばツーカーの仲です。

この旅は、例年だいたい2週間くらいのコースですが、実は旅が始まるまでにも、長い長い小さな旅があるのです。私は1年の10ヶ月くらいを中国で暮らす身ですから、これらのプレ旅を企画実行するのはすべてTの仕事です。

今年参加してくれた生徒たちの多くは、短期間ではありますが、フクシマに行ってボランティア活動を経験してきています。また、日本3大ドヤのひとつである横浜寿町へ行って、ドヤにも宿泊しています。かの地で長く診療活動をしている、私たちの信頼する仲間がいて、彼らが生徒の面倒を見てくれるのです。これらは特に中国ツアーのために企画されたものではないのですが、おのずとそういった活動に積極的な生徒たちが参加を申し込んできているようです。

参加メンバーが決定してからは、3回ほどの学習会を開いて、日中戦争の歴史、“満州”の歴史について学びます。今年はビデオで「ラストエンペラー」も観たようです。

そして、中国に入ってから、まずは撫順に宿を取り、あちこちに残されている“満鉄の遺構”を見て回ります。それらのほとんどが、今も実際に使われており、当時としては、世界的にも最高水準の技術が、この地に投下されたことがわかります。そして巨大な露天掘り炭鉱を見学し(上の写真)、すぐ隣にある平頂山記念館に行って、“満鉄の技術”が、実は中国の土地と中国の資源と中国そして朝鮮の労働力を使って(しかも使い捨てにして)実現化されたのではないか?ということを学びます。当時一流の頭脳の持ち主であった設計者たちは、ほとんどそのことを考えずに、自分たちの設計図を“満州”で実現化することに、恐らくは勇躍胸躍らせて挑んだのではないか?

731部隊」の科学者たちも、とりわけて極悪非道な悪魔であったわけではなく、医学の進歩のために、人々の幸福のために、粛々として「生体実験」を行っていたのではないのか?そしてそういう科学者たちが、731部隊解体以降も、人間としての恥に目覚めて自らに絶望することもなく、日本の医薬学界に君臨し続けたというおぞましい事実。

敗戦と同時にすべてを破壊して逃走した石井四郎を初めとする最高幹部たちは、その研究資料と引き換えに一切の責任を免責され、アメリカの庇護の下、安穏とした老後を全うしたらしいが、ではその取引に応じたアメリカに正義はあるのか?その研究はベトナム戦争時に応用されたという話も聞くが、もしかしたら、オバマ政権が非人道的であると爆撃を準備したシリアの化学兵器にもその技術が流れているのではないか?

等々という疑問や反論や理解を、生徒も私たちも日々確かめ合いながら、旅は続いてゆくのです。

「731」に限らず、中国の記念館、とりわけ日中戦争(中国では抗日戦争)に関わるものは、どこもきわめて政治的プロパガンダ臭が強く、何の予備知識も“準備体操”もなしでは、普段学校でほとんど教えられることのない高校生たちは、ショックが大きくて打ちひしがれてしまうでしょう。心優しい子ほど、“自虐史観”に捉われてしまうかもしれません。

今回「731」で解説してくれた学芸員の話によると、日本人の参観は年間1000人ほど。高校生の団体は初めて見たそうです。

私は4回目ですが、展示資料は来るたびに“充実”していて、「負の世界遺産」登録を目指している中国人研究者の意気込みが感じられました。今回初めて見たのは、アメリカの公文書館で探し出したという、石井四郎がアメリカに提出した資料の一部。内容は理解できないのですが、様々な臓器の解説図がのっているもので、この1枚のレポートを作成するために、いったいどれだけの命が、虫けら同様無残に踏みにじられたのだろうと胸が痛みました。

これまで私が一番イヤだった、生体解剖をしている等身大の蝋人形はなくなっていましたが、かわりに、テレビくらいのモニターに、当時を再現している映像(当然役者を使って)を流しているものが3ヵ所ほどにありました。一目見ただけですが、ホラー映画まがいのもので、こういうものはむしろこの記念館の資料的価値を貶めるだけだと思うのですが、ここを管轄する指導者のセンスなんでしょうか?平頂山にあった再現映像は3年ほど前に撤去されたのですが、ここの現館長さんはとてもおだやかな人です。

遺棄ガス兵器に関する展示、また“残留孤児”の養父母に関する展示もかなりの量ありましたが、この後者については、昨年の反日騒動以降、閉鎖していたのを、私たちには特別に見せてくれました。“美談”づくめて構成されており、中国人が見たら、けしからんと思うのでしょう。

さて、私たちは2時間以上かけて展示資料を見ましたが、いくら予備知識を蓄えて臨んでも気が滅入ってくるのも当然です。それで私たちは帰途、寄り道をすることにしました。これは2日前に急遽決まったことですが、3年前に知り合って、以降友達づき合いをしているDさんという人が、すぐ近くの日系企業で働いているので、その工場見学をさせてもらうことにしたのです。Dさんは5年間の留学経験があって日本語ぺらぺら。冗談を言って人を笑わせることが好きで、なおかつ細かいところまで気が回る、気のいい兄ちゃんタイプの人です。豊橋に本社があるという、工作機械の部品を作っている工場でしたが、隅から隅まで見せてくれ、来年日本に研修に行くという、山本太郎そっくりの同年代の青年ともちょっと話をして、生徒たちの心もほぐれてきたようです。

私たちの旅は、毎日1枚づつ簡単なレポートを提出してもらうことになっているのですが、さすがにこの日は提出できない生徒が多く、それも当然のことで、時間をかけてゆっくり答えを求めてくれればいいと思います。そして、彼らがいかに答えを求めたがっているかを、Tと私は最終日に知らされることになるのです。

最終日はおおむね自由時間というふうに決めていました。家族や友人にお土産も買いたいだろうし、それをあれこれ悩むのもまた旅の大切な楽しみだからです。それでもまる1日は必要ないので、買い物は午後から、午前中は、故宮博物館と918記念館に別れて自由参観、ということにしました。それで、それぞれどういうところかを説明した後、手をあげてもらうことにしました。Tと私は、きっと故宮の方が多いだろうと予測しました。平頂山、「731」と、日本人としては必ず気が重くなる展示を、あれだけ見てきたのだから、もう「918」はパスしてもいい。

ところが、希望を聞いてみると、参加者10人全員が、まったく躊躇することなく、「918」の方にいっせいに手をあげたのです。これにはびっくりし、感動もしました。大人たちがなるべくなら隠したいと思っていることを、子どもたちは知りたがっているのです。

ただし、この話にはオチがあって、当初予定していなかったので、私は休館日を確認しておらず、実はこの日が休みだったのです。生徒たちには申し訳ないことをしてしまいましたが、けっきょく、午前中に買い物、午後2時にホテルに戻って、夕方までディスカッション(といっても感想会程度)ということになりました。

その後にいよいよ旅のフィナーレで、みんなが一番楽しみにしていた、「四つ星ホテルでのディナーバイキング」です。誰もが餓えていたたっぷりの生野菜と、ローストビーフにサーモンマリネ。日本人客が多いのでしょう、握り寿司やおでんもあって生徒から歓声が出ます。最後にはおいしいケーキも思いっきり食べて、今年の中国ツアーも無事に終了しました。

生徒たちはお土産と一緒に、たくさんの宿題を抱えて帰郷したわけですが、参加募集のパンフの最後には、いつも同じ一行が加えられています。

さあ、君たちの新しい旅はここから始まる!