撫順 その5

すっかり暗くなっているのではっきりしませんが、この建物は、現在は「煤都賓館」というホテルになっている、かつての「満鉄倶楽部」です。1泊5000円ほどで泊まれるので、いずれ実際に宿泊して、建物の中をいろいろ見てみたいです。

入り口の紅いアーチには、老人の80歳のお祝いがあると書いてあります。冠婚祭のときは、紅いアーチ、葬のときは黒いアーチを建てるのは、こちら山西省でも定番です。

日本人が施設した、炭鉱への引込み線。

発電所

于さんは、これは以前「靖国神社」の本殿だったというのですが、それらしき痕跡はどこを探しても見つかりませんでした。しかし、こういう屋根の形は他では見たことがないので、やはりそうだったのかなと思います。現在は、公安局退職幹部の保養施設になっていました。

あまりに多すぎて、これらがかつては何であったのか、于さんも思い出せませんでした。

けっきょく、1泊2日、実質まる1日という短い時間の間に、これだけの“満州”時代の遺構に巡り合うことができました。于さんがいうには、これらでほとんどすべてだそうです。もちろん資料として提供するためには、それぞれ確認が必要だと思いますが、今回は時間がなかったので、次回9月に来たときに、撫順博物館の館長さん(去年偶然知り合いになった)に聞いてみたいと思います。

とても40歳とは見えない、若々しい于さんと、SUZUKI車。ネット上なので、あえてわかりづらい写真をアップしましたが、実は彼は、大沢たかお似のイイ男だったんです。
于さん、いろいろありがとう!9月の再会を今から楽しみにしています。

最後に、「インフラは日本が造ってやった……」という言説ですが、とんでもハップン。当時の日本人関係者は、誰も戦争に負けて、命からがら逃避行をしなければならないなんて思っていなかったのだから、当然、自分たちのために造ったのです。中国の広大な土地に、中国の豊かで良質な資源と、中国のタダ同然の労働力を使って。

それで無条件降伏して、インフラをそのままにして(大量の技術者が残留させられた、ないしは、自らの意思で残留したとしても)、けっきょくみんな帰国したんだから、それを「造ってやった」というのは、負け惜しみというか、みみっちいというか、○○の穴が小さいというか。。。“侵略のあかし”として全部ぶち壊されても誰も文句いえないのに、それを大事に大事に、100年くらいも使ってくれているというのは、むしろ感謝すべきだと私は思いますね。

それに、当の彼らは、日本の技術が素晴らしかったこと、現在の中国ですら追いつけないことを、とても素直に認めているのです。今回の于さんでも徐さんでも、まったく偶然出会った、何の利害関係もない人たちですが、日本人が作った道路がいかに走り易いか、日本人が造った建物がいかに安心して住めるか、口を揃えて誉めるのです。もちろん、だからといって、侵略戦争に一点の理を認めるものではありません。それは別のことなのです。

私が初めて中国の地を踏んだのは、今から17、8年前で、今回と同じく東北地方を訪れました。そしてハルビンまで足を延ばしてぶったまげたことがあるのですが、あの731部隊の残されていた施設が、なんと、高等学校の教室として使われ、おそらくは、“マルタ”たちが整列させられていたであろう地獄の運動場で、生徒たちはバスケットボールに興じていたのです(現在は資料館として整備されている)。

初めての中国で、このフレキシィビリィティの“極致”を目撃した私は、以来、「中国人はとてもフレキシブルな人たちである」という認識の下に常々行動しています。関東軍総司令部や警察署本部や満鉄病院や、諸々の頑強で瀟洒な建物が、そのまま共産党本部になったり、大銀行の本店になったり、中国人民の保養施設に生まれ変わるのは、まったく不思議なことではないのです。

翻って、私の住む黄土高原の辺鄙な市町村でも、例え「日本人を皆殺しにせよ」というスローガンが踊ったとしても、キャノンのカメラからカシオの腕時計、シャーペンの芯から、スーパーのビニール袋に至るまで、日本製はいいからといって、みんな欲しがるのです。去年初めて会った(普段は村に住んでいない)我が村の新しい村長さんは、尖閣問題で突っ込んで来ましたが、彼の愛車はPRADOです。この大いなるフレキシィビィリィティを理解せずして、“反日行動”や“反日教育”を云々することは、およそ実態からかけ離れているのではないかと、私は思っています。