撫順 その4

去りがたい龍鳳櫓を後にして、望花区にある、解体寸前だという旧日本人住宅に向かいました。その途中途中でも、「あれも日本人が造った」「あれもそうだ」と、于さんが指差して説明してくれます。彼は武警にいたからとはいえ、特別にそういうことを“研究”している人ではありません。つまり、少なくとも近辺に住んでいる人たちは、今でもそういう事実をよく知っているということでしょう。

この家は明らかに人が住んでいますね。築20年といわれてもぜんぜん違和感ないです。

写真ではわかりづらいですが、河(渾河)の向こう側にコンクリート製の防水堤ができています。日本人が造ったものです。この河の右手上流にかなり大きな湖があり、当時、増水期にはときどき氾濫したのだそうです。今はダムができていて、ダム湖の下には、旧日本人住宅がたくさん沈んでいるそうです。そのダム湖を見に行こうとしたら、前日から軍の管理下に入ったそうで、中に入れませんでした。瀋陽市の水源でもあり、水の管理を厳格にしたということです。

この橋も日本人が造ったそうで、今も使われています。近くにもう一ヵ所あるのですが、その橋は危険なため、つい最近通行禁止になったそうです。つまり、つい最近まで使われていたということです。

いままさに解体工事が始まっていた住宅地。あちこちに瓦礫の小山ができていました。上の2枚の“満州”時代の写真が、望花区のものかどうかは特定できません。

ところどころに、さりげなく凝った意匠が配置されています。アーチ型の入り口や窓が多いのは、当時の技術者の自信の表出なのかもしれませんね。

紅い対聨が貼ってあるところを見ると、ここに住んでいた人は、最後の春節(2月10日)を、この旧日本人住宅で迎えたのかもしれません。

瀋陽のような大都市と違って、巨大重機で一気にバリバリッ、ドーン!ではなく、人手でぼちぼち解体しているようでした。それでもあと一二ヶ月もすれば、このあたりは一面瓦礫の原と化すことでしょう。私が撮ったこの写真が、もしかしたらこれらの住宅群の最後の写真になるのかもしれません。

日本人が住み、彼らが去り、中国人がやって来て、あぁ、その前にソ連人が住んだかも。そしてまた人は替わり、万感の思いを秘めた小さな無数の歴史を抱えた90年をも越える大きな歴史の、最後のひと時に立ち会うことが出来た偶然を不思議に思います。

東日本大震災で亡くなられた多くの方々、そして今なお暗い水底で故郷への帰還を待ち焦がれている多くの御霊に、心より哀悼の意を表します。