樊家山

昨日、ちょっとした用があって、隣村の樊家山へ行ってきました。樊家山は、私が2006年春から1年ほど暮らしたところで、賀家湾からは歩いて30分ほど、招賢から遠ざかります。

私がいた頃は、この村は近隣でも割合に豊かな村といわれ、希望工程(貧困地区の小学校を支援するための官民合同プロジェクト。日本人もたくさんカンパしてました)の資金で建設された、コンクリート造りの立派な学校がありました。寮生も受け入れていて、給食設備もあり、100人以上の生徒と7、8人の教師がいて、私はその学校のすぐ下のヤオトンで暮らしていて、ときどき給食をごちそうになりに行ったものです。水も学校の井戸を使わせてもらっていました。

ここも2年前に廃校になり、1日に1本走っていたバスも不通になり、過疎化が進行していたのですが、昨日あらためてその凋落振りを目の当たりにして暗い気持ちで帰ってきました。以前はビンボー村で名が通っていた賀家湾の方が、まだまだ活気があります。離石、臨県に行くバスがあって、市も開かれる招賢まで、歩いて30分という距離が幸いしているのでしょう。

村に入る道路がこんな風に陥没していました。いつからなのかわかりませんが、この場所は、私が住んでいた頃から、常に土砂が崩れるところで、抜本的な対策を講じないと、何度修理したってまた崩れます。黄土は、ほんとうに水に弱いのです。

2年前にできた村の集会所。これらのヒビ割れは、炭鉱の影響と、工事のずさんさの両方が原因でしょうか。でも、この扉の歪み具合を見ると、やはり地下で地層が緩んでいるのでしょう。こんな感じで崩れ落ちていった建物も何度か見ました。

対聨こそ貼ってありましたが、固く門が閉ざされ、あちこちで無住のヤオトンが目立ちました。こちらでは、人が中にいるときは門は開け放って、どうぞお入りください、と、お客さんは誰でも歓迎するのが風習です。

こういう貼り方は初めて見るのですが、黄色い対聯は、去年この家に死者が出たしるし、紫はおととし死者が出たしるし、赤はもちろん、今ここで暮らしている人がいるしるし。普通なら、この家では黄色い対聯のみを貼ります。

希望工程の学校ができる前に、小学校として使われていたヤオトン。

現在、おそらくは100人を切る人口だと思いますが、賀家湾よりは先に廃村になる可能性が高いです。暗い話ばかりで残念ですが、これが如何ともしがたい現実です。
以下は、いずれも2006年に撮った写真。こんなにたくさん子どもたちがいたのです。