伝統を求めて

10時頃、洗濯をしようとして、ゴム手袋に手を入れました。すると右手の小指の先に何かごわっとしたものがあたって、一瞬、バンドエイドが抜け残っているのかなと思ったのですが、小指に貼った覚えもないし。。。ま、まさかっ!とあわてて手を抜いてトントンと振ってみると、瀕死状態(私が手袋の上からごしごししたから)の越冬サソリでした。手袋の中が温かかったんでしょうね。

よく見ると指の先に針がささったままで、すぐに抜きましたがすでに毒液が注入された後で、じんじんと痛み出しました。去年は春先に部屋の中(温かいから、折りたたんだ布団の中とか)でよく見かけ、生まれたばかりの赤ちゃんサソリも何匹か見ましたから、部屋の中に巣があったのです。長く使ってなかった部屋だったし。

で、蜘蛛が子サソリを食べると聞いていたので、私は蜘蛛を手厚く保護して、部屋中蜘蛛の巣だらけになったのですが、かいあってか、夏場にはみかけなくなり(そもそも夏は外の方が気温が高いので部屋の中にはあまり入ってこない)、けっきょく去年は一度も刺されたことはなかったのです。それがまったくこんな時期に、油断もスキもあったもんじゃないです。

しかし、さすがに夏場のような旺盛な毒力はなかったみたいで、1時間ほどでほぼ痛みもなくなり、今は指の腫れもひきました。

洗濯を終え、ポケットに落花生を一つかみ入れ、なつめを連れて山の畑を一巡りです。例年ならば今の時期、あるだけのものを着込んで、手袋も2枚はき、毛糸の帽子とマフラーの重装備で出かけても、足裏からじんじん冷え込んでくるのですが、今年はほんとうに暖冬で、今日なども、そよとの風も吹かず、上着を脱ぎたいほどの暖かさでした。庭に出している水も日中は凍りません。部屋にいるときはパネルヒーター(恐らく村中でウチだけ)をつけるのですが(寝るときは消す)、朝起きると、室温がだいたい10℃くらいもあるのです。もちろんとりあえずはありがたいのですが、不気味です。しかしいずれにしろ、寒さのピークは過ぎているのですね、あさって4日は立春です。

さて今日、私は何軒かの村人の家を訪ねました。中国では、大晦日(今年は2月9日)の夜に、家族そろって「年夜飯」というごちそうを囲む習慣があります。日本のお節のような感じですね。ただし、お節みたいにそれを何日も食べるということはなくて、一晩だけです。当然地方地方によって特色があるので、私は今年はぜひ、当地の年夜飯の作り方をビデオに収めようと思っていたのです。

そういう風習も徐々になくなりつつあるだろうし、どこの家が最も“伝統的な年夜飯”を作るのか、年寄りと家族が多そうな家にあたりをつけて聞いて廻わりました。ところが期待に反して、どこへ行っても、作ることは作るけれど、伝統的といわれるほどのものは作らないというのです。理由は簡単で、もう以前のように、そんなに大勢が集まるわけではないから。

中国の農村の最も“うるわしい”伝統のひとつであった、春節には、何が何でも故郷の老親の元に子や孫たちがつどい、一族うちそろって新しい年を迎える、という風習は大きく変わろうとしているのです。それもほんのこの数年の間に。私がこの地に住み始めた7年前の春節は(当時は李家山村)、とてもとても賑やかで、まさに村中が着飾った子どもや若い女性たちで、ぱっと花が咲いたようになりました。圧歳銭(お年玉)で懐が温かい子どもたち目当ての、移動おもちゃ屋まで店開きしたものです。

ところが例えば今日、私の部屋の大家さん、つまり前村長のお母さん(70代)が帰って来ました。彼女は、自分の娘さんが働くようになって、子ども、つまり孫の面倒をみるために、1年前から太原で暮らしています。50代の長男、つまり前村長さんは、去年村の幼馴染みと再婚して、太原で夫婦で雀荘を開店し、稼ぎ時だから帰って来ません。離石に住む長男の息子たちも、親が帰ってこないのだから帰って来ません。三男の家族も離石で春節を迎えるそうです。娘さんは、普段から一緒にいるわけだから帰って来ません。ゆいいつ次男が今の家を守っているのですが、彼は結婚していないので、当然嫁も孫もいないわけで、つまり、大きな家で母と息子とふたりきりで春節を迎えるわけで、「そんな、たったふたりで、伝統的な年夜飯もないでしょう」といわれる始末でした。

他の家の状況も似たり寄ったりでした。比較的若い夫婦のところに、未婚の子どもたちは帰ってきます。出稼ぎに出た夫は、妻や子のもとに帰って来ます。ところが、村を出て家族を持った子どもたちは、以前のようには親のところに帰ってこなくなったのです。先回、5年ほどの間に急行列車が新幹線に変わったと書きましたが、家族のあり方もまた、このスピードと並行するように変わってきているようです。

もちろん、この地の状況が全中国にあてはまるわけではありません。何度も書いていますが、ここは比較的都会に近い、いまや(この5年ほどの間に)むしろ“周縁部”とすらいえる地域なのです。

私は明日また、“伝統的年夜飯”を求めて村を廻ってみます。きっとまだどこかの家に残っているはずです。それをビデオに収めて、ぜひここでご紹介したいと思っています。