呉老婆山

昨日、老八路孫老人と、呉老婆山へ行ってきました。この呉老婆山というのは、この間の取材の中でたびたび名前が出てきた山で、日本軍と八路軍の大きな戦闘があったところです。

離石に行く途中にあるのですが、村人に聞いてもなかなかはっきりと、「あの山」、といってくれる人がいません。それもそのはずで、この界隈では、1000mクラスのなだらかな山々が、四方八方に連なって、“高原”を成しているわけで、とりわけて高い山や独立峰があるわけではなく、遠くからの特定が難しいのです。

孫老人にそのことをいったら、「じゃあ、案内してあげよう」ということで、朝9時のバスに乗って、前焉という村で降りて、そこから登ることにしました。実はこのあたりが、本来の孫老人の故郷だったのです。

老人も20年ぶりくらいのことらしく、道がわからないので、麓の家で聞いたのですが、車が通れる道があるけれど、それはずっと遠回りになるので、こちらの山道を登った方がずっと近い、というのです。はるかに見晴るかしてみると、一面に枯れ草が生い茂ったあたりの崖っぷちに、崩落しかかったきわどい道筋が貼りついてはいました。いくらなんでも88歳(90歳は間違い)の老人の足腰では無理だろうと思ったのですが、老人は、「昔、遊撃隊の頃はこんな道ばっかりだった」といって(そりゃーそうでしょう)、草の根っこにつかまりながらどんどん進んでいくのです。それを私は後方からハンディカムを構えて追いかけたのですが、老々コンビの悲しさで、私が誰かに荷物を持ってほしいくらいなのに、老人の荷物(それがなんと、ビン入りの飲み物と、どこで歌うつもりだったのか、分厚い歌集)も一緒に背中に担いで、それはもう途中で何度もグラリッ!と来ました。

それでもなんとか無事に40分くらいで頂上に着きました。快晴で風もなく、乾燥しているのでほとんど汗をかくこともなく、とても快適なハイキングでしたが、残念ながら写真の方はアウトでした。界隈では最も高い山(私の高度計では1390m、ちなみに賀家湾の私の部屋で995m)なので、頂上からのパノラマはさぞかしと期待して、一眼レフに広角の交換レンズまで担いで登ったのに、麓の方は一面に靄がかかって、普段ならよく見えるはずの黄河さえ、どこにあるかもわからなかったのです。一昨日、ほんの少しですが雨が降ったのが災いしたのかもしれません。それと、このあたりは私が住んでいる地域よりも人口が少ないのか、山はただぺらっとした山のままで、人間の手で耕し尽くされている、あの感動的な段々畑はほんの一部だったのです。

枯れ草が茫々と生い茂ったサッカー場ほどの頂上に、円錐形の土盛りのモニュメントが建っていて、思ったとおり、「無名烈士の墓」でした。ここでは何回か戦闘が繰り広げられているのですが、一番大きかったのが、1938年2月の戦いで、そのときに亡くなった陝西省から来た26人の無名戦士の遺体が埋葬されていると碑文に書いてありました。

孫老人は、この時にはすでに八路軍に文字通り従軍して、この地を離れていたそうですが、前年の37年にもあたり一帯で戦闘があり、近くの山の上から日本軍と中国軍が突撃と後退を相互に繰り返す様子を見ていたそうです。四方八方に連綿と小山が連なっていて、至るところに日本軍がいて、それに八路軍と国民党軍が入り乱れて攻撃をかけ、時には八路軍と国民党軍が戦闘に入ったりと、子ども心にも何が何だかさっぱりわからない状況だったそうです。

かつて老人の生活空間であったいくつかの村落を見下ろす崖っぷちの叢に座って、私たちはいろんな話をしました。彼が20代で従軍先の広東で結婚して家族もいるのに、なぜときどき故郷に帰ってきては何ヶ月も過ごすのかもわかりました。彼は文革のときに家族を広東に残したまま下放され、7年半の長きに渡って、この界隈で農業に従事していたそうです。彼は当時どこかの病院で働いていたはずで、組織の全員が下放されたようです。文革の記憶に関しては、この先にまた機会に恵まれれば取材したいと思っています。もしかしたら、戦争の記憶よりも、もっともっと他人に語りづらい辛い過去があったかもしれないし、それを聞くにはまだまだ私と老人との距離は遠すぎるからです。

老人はそれから(文革後)仏教徒になったそうで、今もその修練を積んでいるといっていました。昔の僧は歳をとると山に洞窟を穿って修行をし、そのままそこで生を終えたものだが、今はそういう僧はいなくなったと、あたかも自分自身がそういった死に方を望んでいるかのようなものいいでした。仏教徒になってから、酒もタバコも止めたそうで、今はもっぱら甘党だと笑っていました。持参した瓶入りの梨の実ジュースをゴクゴク飲んで、傍らの枯れ草の茎を楊枝にしたてて、梨の実を食べ、ポイと空き瓶を捨てるまでの仕草が、なんというか“豪快”で、とても90歳に近い老人とは思えませんでした。こういった日常の仕草の中にも年齢というのはよく見えたりするものなのですが。

そうこうしているうちに、突然孫老人が、この38年の戦闘では、日本軍一個師団が、4名の生存者を残して全滅したというのです。彼は当時13歳くらいなので、もちろん後から聞いた話ですが、一個師団というと、1万人規模の兵隊になるのではないでしょうか。この呉老婆山で半数近くが斃れ、退却の途中の棗林溝という谷筋で、待ち伏せしていた国民党軍に残りの半分がやられたというのです。にわかには信じがたい話ですが、孫老人が私に嘘をいうはずはなく、彼自身の記憶の中では、そのように認識されているようです。日本に帰ったら、何か資料があるかもしれませんが、いずれにしろ、多くの日本兵がこの地で戦死したことは間違いないでしょう。次回帰国したときに何とか時間を作って、図書館で調べてみたいと思っています。

帰路は山道を避けて車道を歩きました。一台としてすれ違う車も人もなく、野鳥の声がのどかにこだまし、上天の空はどこまでも青く、時に赤く実った草の実を口にしながら、私は何度も何度も呉老婆山を振り返りました。誰に知られることもなく、“無名戦士の墓”にすら葬られることもなく、幾星霜を黄色い大地の下に眠り続ける、孤独な日本兵の亡骸に祈りを捧げながら。