元八路軍兵士 孫振発 88歳

しばらく前に、数人の村人に混じって、見たことがない老人がひとり、招賢から来たオート三輪から降りるのを見かけました。界隈の村人にはいない、ナップザックを背負った、見るからに闊達そうな老人でしたが、ゆうに80歳は越えている趣だったので、私はすぐさま近くにいた人に「誰?誰?あの人」と聞いたのですが、そのときは答えがありませんでした。

あとでわかったところによると、彼は近くの村の出身だけれど、今は南の広東に住んでいて、賀家湾に住む甥のところにやって来たのだそうです。年齢は90歳くらいで、元八路軍兵士だというのです。私はさっそくその顔見知りの甥のところに行って話を聞きたいと申し込んだのですが、彼は、「気難しい人だから、ちょっと無理かも」というのです。いわれてみると、確かにそんな風貌の老人でした。とにかく聞いてみてくれと頼んだのが1週間ほど前でしたが、OKが出たのです。

翌日さっそく村の高大夫(医者)を伴って、その甥の家を訪ねました。どんなふうに切り出したらいいだろうかと迷っていたのですが、会った途端、「おお、君が日本人か?」といって、ニコニコしながら握手の手を差し伸べてきたのです。“気難しい”人どころか、どうやら、“身内には厳しい”人だったようで、とてもとてもきさくな人でした。

ところが、話を聞いているうちに徐々にわかったのですが、この孫老人というのは“たいへんな”人で、正真正銘の元八路軍兵士、「開国将士」の称号を持つ人だったのです。
どういうことかというと、八路軍兵士といってもいろいろで、当時のことですから、正確な兵員名簿といったようなものがあるわけではなく、転戦の途中で八路軍に参加してそのまま軍と行動を共にした農民兵は多いのです。彼らは確かに“八路軍兵士”として戦ったのです。

ところが、日本軍が投降して、とりあえず戦争が終わった段階で、隊列を離れた兵士がいるのです。広大な中国で、きちんと統制がとれていたはずもなく、何が何だかよくわからない状況の中、身一つで家族の待つ故郷に帰っていった兵士たちが多かったのも当然のことでしょう。その後の国民党との戦いの中でも、順次隊列を離れた兵士は多く、最後の最後まで軍に残って戦った兵士というのはそれほど多くはなく、これはもう特別扱いなのです。

彼らには、毎年国から年金が出ていますが、そういう年金を受け取っている人というのは、私が会った“元八路軍兵士”の中でも、ほんの2、3人程度で、しかも額は多くありませんでした。村人の噂によると、孫老人の年金は、月に6000元ほどだそうで、これはこちらの小中学校教師の給料の3倍以上になります。いくらもらっているのか、ご本人に聞いたのですが、「使い切れない」ほどだという答えが返ってきました。

孫老人は、1940年に八路軍に参加し、45年からは東北地方で、国民党と戦っています。そして、中華人民共和国が建国されて以降も、南の方で一部の“反抗勢力”と戦闘を交えているのです。「開国将士」というのは、中華人民共和国の建国に直接功労があった人に与えられる称号ですが、現在も存命中という人は、全中国でもいったい何人くらいいるのでしょう?

しかも彼は、身体も頑強ですが、頭の方がものすごくクリアな人で、話していても、とても90歳近い人とは思えません。80歳を過ぎる頃ともなると、記憶こそ明瞭であっても、話ぶりの中にすでに如何ともしがたく年齢を感じさせる老人が多いのですが、孫老人の場合は、40代50代の人と話しているのとなんら変わりはなかったのです。

私の質問はただひとつ、「日本軍と戦った頃のことで、記憶していることは何でもいいから話してほしい」というものですが、もう彼の場合は、そんな漠然とした問いでは意味を成さないくらいに有りすぎて、これはもうひとつひとつ具体的に項目をあげてゆかないと答えようがありません。

ところが、実は私は、ビザ切れ帰国のためにあさってには村を離れます。彼が広東に帰ってしまったら、年齢からいっても、もう2度とチャンスはないかもしれません。すると老人は、私が帰って来るまで待っているから、また来なさいといってくれたのです。

その後は、高大夫と3人で雑談になって、歌を歌ったり、二胡を弾いてくれたりと大いに盛り上がりました。90歳になって、「今習っているところだから」という二胡もなかなかのもので、次回には、黄土高原の風景をバックにして撮影することまで決まりました。

そして今朝、私のミニ菜園で作っている油麦菜を孫老人に食べてもらおうと思って、持ってゆきました。油麦菜はこちらではあまり作っている人がいないのですが、私の菜園ではけっこう立派に育ったのです。すると、甥のところではそれを作っていたようで、たくさんあるというのです。ちょっと拍子抜けした私がもごもごいっていると、老人は、「そうかい、じゃあもらっておくよ。気をつけて国に帰りなさい」といって、たった2株の油麦菜を受け取ってくれました。ほんのささいなことではあるけれど、やっぱり彼は“大物”だぁと、私は心から納得したのです。