客への眼差し

ここ最近、白文(バイウェン)というところに3回続けて行ってきました。賀家湾が臨県の南西部に位置するのに対して、白文はちょうど反対側の北東部にあたり、距離にして80キロほど、いったん臨県(=城里 その地域の中心部の町をこう呼びます)まで出て乗り換えます。

城里より北は、もともと抗日軍の勢力が強かった地域ですが、白文に八路軍の根拠地があるということで、1940年に日本軍の焼き討ちにあい、3日3晩火をかけられて村中が灰燼に帰したといわれているところです。当然そういうところは、ひとりでは行きづらいし、私が主に取材している地域とは離れているので、白文の取材はほぼあきらめていました。

ところがしばらく前に、城里へ写真を焼きに行ったとき、バスターミナルにちょうど白文行きのバスが停まっていたので、運転手に時間など聞いてみました。随分気のいい運転手で、何をしに行くんだという話になり、私のしていることを話すと、じゃ、オレのおじさんを紹介してやるよ、ということになり、すぐその翌日に初めて白文を訪れたのです。

おじさんという人はまだ50代の人ですが、家にパソコンもあって、甥っ子のいった通り“インテリ”でした。そしてその彼の紹介で4人の老人を取材しましたが、結論からいって、もうほとんど当時のことを詳しく話せる人はいない、ということがわかったのです。

1940年というと、今から70年前です。当時、物事がそれなりにわかるだろう15歳と考えれば、現在85歳。当地では85歳以上の人を探すのはそう簡単ではないし、すでに語り継ぐ記憶を持っていないという人もいます。残念ながら今回の取材の成果は多くありませんでした。

しかし実をいうと、私を残念がらせたかわりに、私を喜ばせたこともあったのです。私が行ったのは白文鎮の郝峪塔(ハオイーター)という村ですが、まったくの闖入者である日本人の私を、会う人会う人が、みなほんとうに快く、笑顔で迎えてくれたのです。すでに“記憶が風化しつつある”という問題はまったく別にしても、小さな村落共同体の中へ客(まれびと)が立ち入った時に、村人たちが客に放つ眼差しは、日本とは大きく違うように感じました。

日本軍に焼かれた痕跡は、今なおそのままに放置されています。

私が日本人とわかっていても、レンズの前でこんな笑顔を見せてくれました。1枚目のじいちゃんなどは、私が単に篭の写真を撮っていたら、この方がいいだろうと、わざわざ出てきてポーズを取ってくれたものです。

(1月2日)