さよなら 賀家湾小学校

賀家湾小学校がなくなるという話は、しばらく前に聞いていました。そもそも昨年度(9月新年度)の生徒はすべて幼稚園生(こちらの小学校は幼稚園を兼ねることが多い)だったので、この事態は早くから予測されていました。

薛老師は、専門の教育を受けた“正式老師”ではなく、“代課老師”つまり、代用教員なので、正式に小学校に上がれば、親は我が子を“正式老師”に、つまり標準語で教育を受けさせたいと考えるのは、今や当然ともいえる成り行きなのです。

どういうことかというと、中国語にはピンインといって、いわば発音記号があるのですが、例えば「注意安全」なら「zhu yi an quan」(これにそれぞれ4声記号がつく)と、アルファベットで表記されます。ですから、標準語がわからないと、そして基本的にアルファベットが使えないと、このピンインがわからないことになり、ピンインがわからなければ、パソコンにも携帯にも、文字の入力ができないのです。

実際に、こちらでも、仕事を持っている人なら今や携帯は誰でも持っていますが、メールが使えない人はものすごく多いのです。こちらが送ったものを読むことはできても、返信ができないのです。

薛老師は他の村人と比べればずっと標準語に近い言葉を話しますが、すべての文字をピンインで表記することはできないはずです。もちろんそれだけが理由ではありませんが、とにかくこの9月の新学期に、賀家湾小学校へ上がる子どもはひとりもいなくなりました。

この間3回ほど薛老師と会っているのですが、暗い表情で、口数も少なく、職を失ったということが容易に想像できました。村の小学校はどんどん閉鎖されているわけだし、町の学校で彼を雇用してくれるアキがあるかどうかは難しいところです。

ところが今朝8時頃、彼がやってきて、初めて自分の口から、学校がなくなることを告げ、9月から招賢の双坪の小学校に行くことになったというのです。これまで通りの明るい顔で、おそらくは、つい最近になって、新しい職場が決まったということでしょう。それで今日は、村を回って、遠くの学校に行っている子どもたちに、双坪小学校への転校を勧めているのだといって名簿を見せてくれました。多分、この生徒の勧誘と引き換えに職を得たのではないかと私は思います。本来は教師がする仕事ではないのですから。

すでに10人以上が転校に同意しているようで、そんなに簡単に転校するもんだろうかと思ったのですが、実はこの双坪小学校は、この9月から国の特別補助が出て、食費も寮費もいっさい無料だというのです。他の学校も、公立なら授業料は免除ですが、食費や保険料などなど、やはりかなりかかります。それが全部タダになるなら、親は喜んで転校させることでしょう。生徒数200人ほどの学校だそうですが、9月からの新制度だとすると、これからどんどん増えてゆくのかも知れません。補助が出るのは「扶貧」、つまり貧困対策です。

この写真は2006年3月に撮ったもの。これは低学年だけなので、全体では倍以上いたと思います。

これ(1枚目も)は今年の3月、賀家湾小学校最後の子どもたちです。左から2人目が薛老師。

少なくとも村の壕が日本軍に焼かれた1943年、賀家湾小学校はすでにありました。教室の裏側から壕に抜ける道が掘られていたからです。274人が惨殺されたという、その惨劇の舞台ともなった小学校は、2011年6月、長かった歴史の幕を下ろしました。「閉校式」「お別れ会」などはいっさいありません。いずれ映像に残しておこうと思っていたのですが、私の怠慢から、それもついにかないませんでした。

(8月20日