最後の選択

高老人の埋葬はまた暗い話になるので、もう止めておくつもりでした。しかし、遠く離れた日本で、じいちゃんの死を心から悼んでくれる人がきっとたくさんいらっしゃるに違いないと思って、黄土高原のある“名もなき”村の、ある“名もなき”農民の死について、やはり最後まで書いておこうと思います。

じいちゃんの出棺は、24日午前3時でした。“不慮の死”をとげた人の場合、埋葬は夜明け前に済ませるのがしきたりです。以前賀家湾で40歳くらいの男性が病死したのですが、やはり出棺は午前0時でした。

普通、棺は故人がそれまで暮らしていた部屋に置かれるのですが、じいちゃんが住んでいたすぐ隣のひとりヤオトンは借家だったので、棺は、息子の住むヤオトンの物置にぽつんと置かれていました。私が行った2時半にはすべての準備が終わっていて、予定通り午前3時にオート三輪に乗せられ、故郷の大長に向かいました。賀家湾の人はどうやらひとりもいなかったようで、棺を担いだのも招賢の人たちでした。この人たちが前日に墓穴を掘っているはずです。楽隊の先導はもちろんなかったのですが、爆竹が鳴らされ、故人が使っていた枕が門の外で焼かれました。

雄鶏が黄泉の国への道案内をするといわれていて、棺の先頭の部分に足を縛った雄鶏が乗せられます。しかし実は、私が実際にこの光景を見たのは初めてで、棺を人が担ぐ場合、落ちてしまうので、雄鶏を誰かが抱えて棺の傍に付き添い、墓につくと、真っ先に墓穴に放たれるというのがこれまで私が見たやり方でした。今回はオート三輪で運んだため、かえってしきたり通りの方法を見ることができました。(雄鶏は埋葬はされません)

埋葬の場所は山のてっぺんにあり、麓からそこまでずいぶん迂回して30分以上かけてようやく担ぎ上げられました。その頃には、親族と見られる男性が3人ほどと、埋葬が終わる頃には、大長で知り合いだった人たちが数人、花輪を持って上がって来ました。やはり彼の人間関係は、大長の方にあったのです。

合葬される相手がいないじいちゃんのために、紙で作ったお嫁さんが一緒に葬られました。これは大きさが1mくらいありましたが、昔は草で編んで作ったそうで、場合によっては小さな銀製のお嫁さんもあったそうです。(*ちなみに写真はISO3200で撮っているため、じっさいよりも明るく写っています)

埋葬は6時前にすべて終了しました。私は山を下りて、じいちゃんがいっていた9つの部屋があったヤオトンを訪ねてみることにしました。帰るときは迂回しないで、細くて急な山道をまっすぐに下がったのですが、その下りきったあたりにそのヤオトンはあったのです。しかも招賢から離石に行くバス道からよく見える位置にありました。

写真の真ん中の部屋が、生まれてから賀家湾に引っ越すまで、70年くらい、じいちゃんが住んでいた部屋です。部屋は、ひとつは崩壊してなくなっていましたが、たしかに9つありました。ここに日本人が1ヶ月ほど住んでいたわけです。

入り口で出会ったばあちゃんは、もちろん嫁に来たわけですから、その頃のことは何も知りません。現在はこのばあちゃん夫婦だけが住んでいるそうです。帰ろうとしたらじいちゃんが戻ってきましたが、彼が埋葬のときに花輪を持って上がってきたその人でした。ずいぶん憔悴した表情でしたが、きっとお隣同士で、ひとつの家族のように暮らした間柄だったのでしょう。じいちゃんは賀家湾に引っ越さなくても、この人たちと一緒にのんびり暮らすこともできたはずです。

息子のヤオトンには、異父妹にあたる女性の家族も暮らしていて、彼女がいろんなことを話してくれました。亡くなったのは午後3時頃で、その前にじいちゃんが短い棍棒にすがりつつ這いながら部屋から出てくるのを目撃していた人がいたのだそうです。そしてこの写真の丸太棒の右端のあたりに座って、周りの風景をじっと見ていたそうです。そして、その人がいなくなった直後に、そこからわずか10数メートルの井戸まで這っていったのです。

じいちゃんには孫がふたりいて、ひとりは町の学校に寄宿していて帰らなかったそうですが、雲南で兵役に就いているもう一人の男の子は、いったん帰ってきたそうです。私は会っていませんが、雲南といえば随分遠く、交通の便も悪いところです。そこから帰ってきたということは、きっとおじいちゃんを愛していたからでしょう。“栄えある”人民解放軍の制服に身を包んで、じいちゃんの77年の人生に礼を奉げたことと思います。息子さんもとても穏やかな優しい感じの人で、私のことも気遣ってくれました。

じいちゃんは、今年の春節(2月3日)の頃はまだ歩けたようです。春節には間違いなく息子も孫もみな帰ってきていたはずで、家族で団欒を囲み、ごちそうを食べ、孫たちにもお年玉をはずみ、きっと楽しい時間を過ごしたのでしょう。77歳といえば、この地ではすでに長生きの方です。もう十分に生きたと考えたのかもしれません。けっきょくじいちゃんは、最後には、故郷を捨て、家族を選んだのだと思います。

(5月30日)