聯想

このPCが壊れたら、今度は聯想のPCを買おうかと思っています。いまはたしかLenovoというブランド名を使っていると思いますが、この聯想にはある思い出があるのです。

私が初めて中国の地を踏んだのは、1997年だったと記憶しているのですが、当時の職場の同僚たちと、東北地方の戦争遺跡というか、記念館などを巡る旅でした。同行者はみな社会科の教師だったのです。

忙しい彼らは瀋陽から直接日本に帰り、私だけが残って北京まで足を延ばしました。もちろん、中国語はニーハオしか知りませんでしたが。

そのときに、どうしてだか覚えてないのですが、「中関村」へ行ったのです。現在は北方中国最大のIT街といわれているのですが、当時は高層ビルなど一棟もなく、まさしく「村」の雰囲気を残し、バラックのような粗末な平屋店舗で、細々とIT関連商品を売っていました。それでもやはり、当時から北京一の「電脳街」だったのです。

そのときに「聯想」の看板を初めて見たのですが、この頃は、北京大や清華大の学生や研究者たちが、客の注文を受けてから、パーツを組み立ててパソコンを作って売るという商売をしていたのだそうです。中関村は両大学のすぐ隣にあります。

街の中心部に2階だか3階建てだかの、おそらくは一番大きな店舗があったので足を踏み入れてみました。ガランとした店の中には、ガラスのショーケースがぱらぱらと並び、その中にICチップの小さな塊がいくつか並んでいました。今のようにどかっと商品が山積みされていたのではなく、それはまるで宝石店に並ぶ高級貴金属のような趣でした。

お客さんも数えるほどでしたが、ふと目に付いたのは、ガラスケースの前で、まさに食い入るようにじっとICチップを見つめていた、いかにも学生といった風情のひとりの青年でした。私はすぐそばまで近づいていたのですが、彼は外界の風景になど一点の関心を示すこともなく、おそらくは新しいパソコンの内部の組み立て構造が脳の中を駆け巡っていたのでしょう。

その研ぎ澄まされた知的な表情を見たとき、私は「こういう青年がいる限り、中国は発展するだろう」と、強く感じたのです。

あれから15年、中関村には高級マンションがひしめき、北京最大の高額所得者の町となっています。あのときの青年は、もしかしたら、その後またたくまに大企業に発展した聯想の関係者だったのかもしれません。 

その後私は北京暮らしを始めることとなり、中関村には何度も行ったことがありますが、あの時の青年のまなざしに再び出会うことはありませんでした。

(2月15日)