あっという間の早業3題

先月22日の午前4時に編集が終わり、翌日東大東洋文化研究所に版下を送った後、3つほど私用を済ませて25日には北京でした。

この時期(春節前)、中国ではすべての交通機関の切符を入手することが至難の業になり、私も日本から北京の旅行社に頼んで、北京→太原の動車組(日本で言う新幹線)の切符を購入してもらいました。これは1日に7,8本あるので、無事入手でき、26日夜には太原。で、翌朝雪が降ったのです。

太原→離石の高速道は、ほんのわずかの雪で通行止めになります。こちらではまだ冬用タイヤが普及しておらず、また寒冷地のため、降った雪がたちまち凍結するからです。それに、この道路はあの難関太行山脈越えのアップダウンの激しいコースです。

ところが私は28日には無事賀家湾に戻りました。なぜでしょう?

鉄道が開通したのです。これを知ったのはつい最近、日本にいるときに太原の友人が知らせてくれました。しかし、鉄道開通といえば大事です。新聞・テレビはないにしても、噂話で知るとか、しょっちゅう行っている離石界隈で、“鉄道工事中”の片鱗くらいには触れるものでしょう、フツーは。ところがまったく知りませんでした。あっという間の早業だったのです。

で、先の旅行社に北京→離石(駅名は呂梁)を頼んだのですが、これは予想通りとれませんでした。ダフ屋が買い占めたのでしょう。確実に儲かりますから。しかし27日に高速道が止まったのを知ってから、フト、もしかしたら太原→呂梁という列車があるのではないかと思い至って駅に行ってみると、あったのです、1日に2本。きっとまだ知れ渡ってないからでしょう。バスが止まっているのに、列車の切符は難なく買えてしまったのです。しかも26元(バスは70元)。

で、3時間で離石に着き、そこからも雪の残る道でしたが、さすがに稼ぎ時、タイヤチェーンをまいた招賢行きのバスが待ち構えていました。招賢の知り合いにスーツケースだけ預けて山道を登ること30分、無事我が家に帰りついたのです。去年は同じ時期、やはり雪で4日間太原で足止めを食らったことを考えると夢のようです。

しかし、びっくりしたのは鉄道開通だけではないのです。これまで太原から離石に向かうバスに乗るには、「西客站」というところ行ったのですが、なんと「新西客站」というところに引っ越したというのです。ちょうど時間があったので見に行ってみると、これがまあ素晴らしく立派な、「松本駅」をもしのぐ巨大なバスターミナルに変わっていたのです。これも、噂すら聞いたことがありませんでした。

そしてもうひとつ。太原→臨県(臨県の行政所在地)に高速道が開通したのです。私が住んでいるのは臨県南部で、離石の方がずっと近くて便利なのですが、これで選択肢も増えることでしょう。高速道の話は聞いてはいましたが、これまた、あっという間の早業でした。日本なら5,6年はかかることでしょうね。

日本では「オリンピック−万博」路線が何かと話題になりましたが、実は地方都市の発展ぶりにもすさまじいものがあるのです。あれよあれよという間のこの変貌に、はたして村人たちはついてゆけるのか?そもそも、村という共同体がいつまでその形を保ち続けることができるのか?“証言集”の編集が一段落ついたのもつかの間、今度は人の記憶ならぬ、村の記憶を追いかける日々が始まるような気がしています。

写真がアップできませんが、長らくのご無沙汰だったので、とりあえず。

(2月2日)