旱魃

6日に村に戻りました。3週間の帰国で、1ヶ月ほど村を空けたことになります。
磧口になつめを預けてあったので、太原から磧口に直行しましたが、臨県に近づくにつれて気になる風景が目に飛び込んできました。畑の土の色が真っ白で、作物が、まだ枯れてはいないにしても、みな元気がありません。本来なら、トウモロコシも粟や麻も、今が1年で最も青々とたけ高く葉を繁らせ、高原の段々畑の横縞が隠れて見えなくなる季節のはずです。私が帰国する少し前にまとまって一雨降り、これで旱魃はまぬがれそうだと村人たちは喜んでいたのですが‥‥。

磧口は黄河に面しているので、とりあえず水の心配はいりません。河川敷の畑では、野菜の出荷に忙しく立ち働いている人々の姿が見えました。ここ数年の間にビニールハウスまがいの建物も増えました。(しかし、前にも書きましたが、ここであれだけじゃんじゃん無制限に取水していては、下流で断流現象が起こるのもあたり前でしょう)。私は何となく気がせいていたので、なつめを受け取って、すぐにミニバンで賀家湾に向かいました。この日は曇り空で、暑かった日本よりむしろ気温は低めです。

部屋に着いて、まずはあちこちうっすらと砂埃を被った部屋中の拭き掃除をしなければなりません。あぁ、その前にまず、ペッタンコにかかった3匹のネズミの処理をしなければなりませんでした。出かけるときにほぼ水は使い切っていたので、共同水道へ行ってみたのですが、案の定、蛇口は錆付かんばかりに固くしまったままです。村人に聞いてみると、私が村を空けていた1ヶ月間、一度も雨が降ってないというのです。谷の共同井戸まで行けば、まだ少しは残っているというのですが、疲れ果てていて、とてもそんな余力はありません。近所でバケツ半分くらいわけてもらい、ペットボトルが3本ほどあったので、それでなんとか一夜を凌ぎました。

日本を離れるとき、以前村に来たことがある私の友人から、「よく、あんな所に帰るね」と、イヤミではなく、同情でもなく、おそらくは“畏怖”の念を込めて、繰り返しいわれたものですが、「あんな所」とは「水がない所」という意味です。もちろん飲料水に困るということはありません。そもそもそんな所に人は住まないでしょう。ただ例えば、流水で野菜を洗ったり、洗った食器をきれいな水ですすいだり(だから私はこの5年間、一度も食器洗剤を使ったことはありません)、なつめも時々洗ってやったり、ふとんカバーやタオルケットなんかもたまには洗濯したり(同じく、5年間洗ったことなし)、たっぷりの水で顔や手や髪を洗ったり、ましてや風呂(シャワー)なんかには入れないだけです。で、これらのことは、私にとって、それほど重要なことではないのです。特に健康を害するわけでもないし(まぁ、美容は害しているでしょうが、今さら)、少々臭くたって他人に迷惑をかけるほどではないし‥‥。しかし最低限、朝夕顔を洗えるだけの水は欲しいです。

ア、話が飛んでしまいましたが、翌日、つまり今日、山の畑を見に行ってみました。地形、畑によっていろいろですが、日当たりのいい斜面の作物は枯れ始めていて、むしろ谷筋の日当たりの悪い所のトウモロコシなどはけっこう頑丈に育っていました。ゴマやキビや綿は乾燥に強いのでしょうか、育っていました。また、早い時期に植えつけたものは根を張っているので持ちこたえているようですが、肝心の主食の粟は、種を蒔くのが比較的遅いので、成長が止まってしまっています。普通なら今頃は穂が出ているはずなのに、どこを見ても穂が出ていないのです。ジャガイモも枯れ始めていました。カボチャやトマト、キュウリもほとんど実がついていません。

これはもう明らかに「旱魃」の兆候です。そもそも、6月末に一雨降る前まで、2ヶ月ほど降っていなかったのです。あれはまさに“恵みの雨”だったけれど、その後1ヶ月以上も灼熱の太陽に焼き焦がされて、畑の土にはもう下の下まで一滴の水分も残っていないのです。私が臨県にやってきた最初の夏が旱魃で、磧口の山の上の畑は立ち枯れ状態でした。あれから5回目の夏です。

しかし、今年は日本を含めて、世界中が猛暑でたくさんの死者を出していますが、この地ではどうやら一般的なサイクルのようで、村人たちは特に悲惨な表情をしているわけではありません。日本では熱中症で200人が死んだという話もピンとこないのは当たり前で、彼らは猛暑の日中は外に出ません。そして土でできたヤオトンの内部は20数℃を超えることはなく、適度な湿度も保たれているのです。

穀物は大きな甕の中に、2年分くらいはどの家でも備蓄しています。大豆や飼料用トウモロコシ、麻の実、綿などは、現金のかわりになり、それらで豆腐や油などを買います。物々交換経済は立派に機能しているのです。加えて今では、息子や夫たちが町に出稼ぎに行き、なにがしかの現金収入が期待できます。

この過酷な自然条件の中で、そうやって数百年、いえ千年以上もの間、農民たちは暮らしてきました。暮らすこと、しいては生きることのサイクルの長さが日本とは違うのです。日本ならば丸一日停電になるだけでパニック状態、トイレに流す水がないだけでも自衛隊が飛んでくるかもしれません。私の心優しい友人たちから、「もう日本に帰ってきたら」と、たびたびお声がかかるのですが、畢竟私はこの村の暮らしと、農民たちの生きざまが気に入っているのです。

(8月7日)