“葬儀研究家”になるのは私の宿命です。

今月8日から2週間、北京→瀋陽ハルビンチチハル→丹東、と廻ってようやく村に戻りました。9月に行われるウチの学校の研修旅行の下調べです。これまでは瀋陽、丹東が中心だったのですが、今年はハルビンを加えようということで、731部隊記念館の現状と、ついで満蒙開拓団の集散地であったチチハルを見てきました。ウチの学校は全国一開拓民を送り込んだ長野県にあり、現在“残留孤児”3世の生徒も学んでいるからです。

で、私の“仕事”は順調に進んだのですが、チチハルまで来てちょっと予定が狂ってしまいました。私の予定を突然狂わせたもの、それはもちろん「葬儀」です。

チチハルに清真寺(モスク)があると聞いたので行ってみました。300年ほど前に建てられたものですが、イスラム寺院独特の玉ネギドームも、ましてやミナレットもなく、ちょっと見には仏教や道教の寺と変わりません。規模もとても小さくて、これは生徒を連れてくるまでにないな、と帰ろうとすると、腰に白い布をまいた人たちが5、6人、慌しげに動き回っているのが目に入りました。誰か信徒の方が亡くなったようです。

帰ろうとしていた私の足はピタリと止まりました。顔はみな漢族の顔で、ウイグル族などとは違います。つまり回族(簡単にいうと、イスラム教を信仰している漢族)という少数民族の人たちです。普通ならばこういうときは遠慮して、黙ってその場を離れるものですが、なにしろ7元という入場料を払ってそこにいるわけで、私はどうということはない建造物や扁額などを再度見学するふりをしながら、様子をうかがっていました。

きっと私は“もの欲しげ”イヤ、“もの問いたげ”な表情をしていたのでしょう、そのうちのひとり(後でわかったところ、故人の弟さん)と話をすることができました。亡くなったのは80歳になるチチハル鉄道局(つまり、旧満鉄)に勤めていた人で、前日亡くなって、明日が葬儀と埋葬。私がいる黄土高原では1週間から2週間後に埋葬だというと、それじゃ腐ってしまうでしょう、とごもっともな返事でした。

簡素な祭壇が準備されつつあったので、写真を撮ってもいいかと聞くと、明日になったらもっときれいになっているから、朝の7時に来てくれというのです。明日は朝から郊外にある“国家級自然保護区”を下見することになっていたけれど、一瞬の躊躇もなく、「では、明日来させてもらいます」と返事していました。なにしろ、イスラム教徒の葬儀です。こんなチャンスはそうそう巡って来るものではありません。

翌朝は6時半に行きました。ほんとうに来るとは思っていなかったようで、さきの弟さんはとても喜んでくれて、すぐに私は“親族扱い”となってしまったのです。というのは、最後のお別れのときに、こちらにおいでと呼ばれて、列をなしていた弟さんの前に入れてもらったのです。

遺体はモスクの小部屋で、ブリキで造った浅い船のような形をした入れ物に安置されていたのですが、身体は白い布(たぶん晒し木綿)でぐるぐる捲かれて、顔だけ布がはずしてありました。ひとりづつ跪いて船のヘリに手をあてて最後のお別れをするのですが、なかには頬を摺り寄せてお別れをしている人もいました。顔は天井を向いているのではなく、参列者と向かい合う形でやや横向きになっていました。成り行き上、私も見よう見まねで初めてあった人にお別れをしましたが、おじいちゃんは、きりりと引き締まった、とても精悍な顔立ちの人でした。

その後に「沐浴」が行われ、これは30分くらいかかり、その間親族は部屋の前で跪いてじっと待ちます。沐浴が終わると“棺”が担ぎ出されて葬儀が行われる庭まで運ばれるのですが、実はこれは棺とはいわないのだそうです。「経匣」(ジンシャー)といって、板の上に蓋が帽子のように被せてあるタイプで、何度も使い回しをするのだそうです。つまり、遺体のみが墓地に埋葬されるわけです。木製で、水色に塗られていました。

祭壇には花輪もお供え物も線香も故人の写真もいっさいありません。この写真では、たくさんの「書」が掲げられていますが、これは故人が地位の高かった人で、知り合いの何人かの書道家が書いてくれたのだそうです。

あるのはただ「古蘭経」(コーラン)だけでした。仏教でいう“焼香”のようなものがあり、親族がひとりづつ名前を呼ばれ、経匣の前でコーランウラマー(?)に手渡したりといった儀式がありました。儀式らしきものはそれだけで、参列したのは親族だけでした。なぜわかるかというと、帽子を被っていない、非イスラム教徒の参列者も後方にたくさんいた(故人は共産党の地区幹部でもあった)のですが、彼らは呼ばれなかったからです。白い帽子というのは日常的に被っているもので(一部葬儀用の帽子もあった)、葬衣というのは、腰に巻かれた白い布だけです。

9人兄弟姉妹の長兄だったそうで、親族はたくさんいました。写真の前に並んでいる6人は聖職者です。

故人の弟さんが最後に簡単な挨拶をしただけで、弔辞といったものもありませんでした。30分ほどで葬儀は終わってしまったのです。日ごろド派手で煩雑なこの地の葬儀を見ているので、そのあまりの簡素さに、私はあっけにとられてしまいました。偶像崇拝を否定するモスクの内部は、聖職者が座る椅子以外に何ひとつないまっさらな空間であることは何度も見て知っていましたが、葬儀もまったく同じで、あるのはただただコーランだけです。

車で1時間ほど離れたアンシーというところにモスリムの共同墓地があり、私も当然のようにそこに行きました。その頃には、以前機関車の運転手だった楊さんという人になぜか気に入られてしまい、つねに“特等席”が用意されたのです。概して、イスラム教徒たちは、国や民族を共同体の基盤とする観念が希薄なようで、基盤とするのは宗教です。仏教国(だと思われている)の日本人に対してはとても友好的です。

これが墓室の内部、横穴式です。人ひとりが入るだけの空間で、棺が入るような広さはありません。これも楊さんが、遺体が運ばれてくる前に連れて行ってくれ、写真を撮らせてくれたものです。

遺体が担がれてくると、深緑色の布が張られ、その下で斜めになった経匣の蓋をわずかに開き、白布に捲かれた遺体がさーっと滑るように取り出されて墓室に納められます。すぐさまレンガを積んで入り口がふさがれて土がかけられます。あっという間のスピードで、男性のみで執り行われました。

この間、墓の前ではコーランが唱え続けらます。線香、供え物などいっさいありません。

ちょうど墓参りに来ていた人たちがいましたが、やはり花も供え物もありませんでした。

その中のひとりが楊さんの知り合いの穆さんで、彼と話していたら、日本人の墓があるというのです。それはすぐに見つかりました。「上田富佐江」さんという、“残留孤児”ではなく、“残留女性”で、当地の回族と結婚して今はこの地に眠る女性です。恐らくは連れ合いの馬さんが亡くなった1997年に、同時に建てられたものでしょう、出身地も没年も記されていませんでした。冬は−30℃というこの極寒の地で、習慣の違うイスラム教徒に嫁いで、この女性はいったいどんな人生を送ったのでしょう?それは幸せな生涯だったのだろうか?おそらくは、国家の政策に翻弄され、数奇な人生を送ったであろうひとりの日本女性の墓に向けて、私は日本式に手を合わせました。

この穆さんは、戦争が終わった頃7歳くらいだったけれど、引き揚げのとき、列車の屋根に上った日本人が、後から来る人を蹴落としていた光景を今でもはっきり覚えているそうです。その後には町にはロシア人が住むようになり、残留していた日本人の子と、みんな一緒になって遊んでいたともいっていました。9月の研修旅行に来たときに、この穆さんと楊さんを呼んで、生徒たちの前でいろいろ話をしてもらおうかなと考えています。

ということで、ちょっと寄り道はしたけれど、けっきょく私は自分の“仕事”をきっちりし終えてから、なつめが待つ賀家湾村に帰ってきたのです。

(5月23日)