黄河の流れを見つめて

19日に西山上の李俊花ばあちゃんが亡くなったという連絡があり、急遽20日に磧口に来ました。ばあちゃんは、私がそもそもこの地に住み着くようになったきっかけを作ってくれた陳老人の連れ合いで、しばらくご無沙汰していて、どうしているかなぁと気になっている人でした。ここ最近は時々寝込んでいたからです。ばあちゃんは歳のせいでほとんど耳が聞こえないのですが、根が明るい性格のようで、私とはいつもジェスチャーで漫才みたいなやりとりをしていました。タバコが唯一の嗜好品で、私が持っていくマイルドセブンを楽しみにしていたばあちゃんです。

西山上は磧口の隣村で、界隈では最も高い位置にあるため、日本軍が最初にトーチカを建造し、黄河をはさんで陝西省に対峙する八路軍に砲撃を繰り返したところです。一度全村が焼き討ちにあったことがあり、病気で寝ていた陳老人のお母さんもその時に焼き殺されました。(上の写真は歳紙といって、年齢+2枚(天と地)を重ねたものを、亡くなったときから埋葬の前夜まで門口に掲げます。)

西山上は地理的に非常に不便なこともあって、ビンボー村で名が通っているところですが、20日の夜に駆けつけたとき、祭壇のあまりの質素さに胸が痛みました。当地の老人たちには貯蓄というものはないので、葬儀の派手さは、すべて、子どもたちが“出世”したか否かにかかります。ばあちゃんには子どもがふたりしかなく、しかもひとりは嫁いでいる身なので、葬儀費用のほとんどは、結局村に残っている長男ひとりの肩にのしかかるわけです。しかし彼は出稼ぎに出ることなく、豆腐を作って行商したり、豚を飼ったりして生計をたてているので、とても余裕があるとは思われません。昨年11月23日にアップした(古くて恐縮です)賀老人の葬儀の写真と比べていただけば一目瞭然ですが、賀老人には5人の子どもがあり、それぞれ都会に出て働いているので、“立派な”葬儀ができたのです。

葬儀の様子は何度も書いているので繰り返しませんが、いつもと違ったことに「出霊」(出棺)の時間がありました。普通は、夜明けと共に出棺されるので、今なら6時半〜7時頃になるはずですが、風水師の見立てによって、なんと早朝5時、もちろん真っ暗闇でした。気温は割合に暖かくて、それでも恐らく氷点下7、8℃。たいまつの明かりをたよりに雪の山道を登るわけで、途中でリタイアする人も出ましたが、それでも私は根性を出して、ナイトスポット機能を使ってビデオを回しました。お金がなくてとても撮影師など雇えない(普通は3、400元)息子に、ぜひ記録に残してほしいと頼まれたからです。

ばあちゃんと比べて、どちらかというと根クラで涙もろい陳老人は、ばあちゃんが先に逝ってしまってこの先どうやって暮らすのか?隣の棟に息子夫婦が住んでいるとはいえ、こちらではまったく別所帯といった感じで、食事も別々の独立した生活形態です。今年87歳になる、盲目の陳老人のこれからがとても気になります。出棺の前夜、ばあちゃんの棺と最後の夜を過ごす老人の横顔には、やはり近寄りがたい孤独がにじんでいました。

ばあちゃんの家の前に立つと、黄河がこんなふうに見えます。ばあちゃんは朝に夕に、この黄河の流れを見ながら、いえ、恐らくはどこに出ることなく、ただこの風景だけを見ながら84年の人生を終え、昨早朝黄土の闇に黙したまま還ってゆきました。ばあちゃんは耳が聞こえず、字も読めないので、結局彼女の記憶を聞き取る機会を逸してしまったのが心残りです。今はただ、私が帰るときにはいつも庭先に立って、山を下りる私の姿をいつまでも見送ってくれた姿が、映画の中の1シーンのように去来するだけです。

(11月23日)